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Coffee Stain(3/5)

 さらに絵は描き込まれて、先生がシャープペンシルから手を離したとき、そこには美しいバラ模様の優美な曲線を描くコーヒーカップが光っていた。喫茶店で使いこまれて、表面には目に見えないほどの細かな傷がいくつもあって、それでもこのカップで飲むとコーヒーの味が違って感じられる、喫茶店で過ごす時間がとても大切で有意義なものだと思える、そういうコーヒーカップがあった。 「僕は、今日、この絵にたどり着くまで、これだけの人生をかけてきた。その熱意や執念、技術や成果物に、簡単にコーヒーなんかこぼしちゃダメだ。わかる?」  俺は、先生の言葉と完成したデッサンの迫力に、何も言えなくなっていた。喉にせり上がってくる塊をこらえながら、黙って何度もうなずいた。そして深く頭を下げた。膝の上に、自分の涙が一滴落ちて、買ったばかりのスーツの布に染み込んでいった。  先生は何も言わず、俺が顔を上げるまで外を見ながらコーヒーを飲んでいてくれた。俺は強いまばたきを繰り返しながら、コーヒーを飲む先生の横顔を美しいと思った。 「俺は簡単に生きてきたので。大学は受かったところに入って、ラノベが好きで出版社に入りました。今年から第一文芸部に異動になって、純文学を読むのがとても苦痛で。それでも一日に一冊は絶対読むんですけど、読めば読むほど俺には向いてないな、苦しい世界に来ちゃったかもって……」  先生はテーブルの上で静かに両手を組み、俺の話にあいづちを打ってくれていた。 「でも今回、新装版を担当することになって。表紙は絶対、先生にお願いしたいと思ったんです。俺、先生の絵には人間の体温のような温もりや汗のような湿気があるって、勝手にそう思ってて。この復刻版の作者が当時感じていただろう愛を、先生の絵で描いていただきたくて。だから引き受けていただいて、気持ちが舞い上がってました。すみません」  俺は恥ずかしさに顔が熱くなり、もう一度頭を下げた。先生は静かにコーヒーを置いて、許しを与えるように微笑んだ。 「実は僕、今、バックオーダーが三年分もあるんだ。正直、金額もギリギリだし、本当ならお受けできない仕事だった。でも、これ、僕が美大に行きたいと思ったきっかけの本だったんだよね。それと、何よりもいただいたお手紙に、気持ちを動かされました。僕がこの絵を描かなきゃいけないって思いました。君は作家の気持ちを動かす力がある。編集者に向いてると思うよ」  先生はそう言って、クロッキー帳を手に取った。 「これ、君にあげるよ」 と、小口(こぐち)にコーヒーが染みたデッサンを破り取る。 『春生くんへ コーヒーには気をつけて。涼』  少し丸みのある字で書き、さらに日付とサインを入れて、四つにたたんで渡してくれた。 「これからもよろしく。僕からのラブレターです」  俺は胸がどきどきした。メッセージ入りの肉筆のデッサンなんて、簡単にもらっていいのかわからなかったけど、またコーヒーをこぼしたら大変だと思って、大急ぎで束見本(つかみほん)のあいだに挟んで、かばんにしまった。 「一生大切にします」 「そんなに思い詰めないで、お互い肩の力を抜いていきましょう」  店が混んできたのを潮に喫茶店を出たら、目の前の大型サイネージに先生のイラストが表示されていた。子どもがたんぽぽの綿毛を吹いているイラストだった。そのたった一枚のイラストを見るだけで、僕の胸には希望が満ち溢れ、自然に口角が上がった。 「そういう反応を見れると、めっちゃうれしい。ガッツポーズしちゃう」  先生は笑ってガッツポーズを見せ、そのこぶしで俺の胸を軽くノックした。  帰り道、俺は画材店に駆け込み、これ以上絶対にコーヒーをこぼさないように、防水のフレームを買って額装してもらった。フレームごとしっかり胸に抱きしめて、これからも仕事をがんばろうと思った。

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