21 / 33
Coffee Stain(4/5)
「お前、ウニクロのパーカーなんかで、本当に大丈夫だったのか?」
「やっぱりヤバかったですかね」
先生にもらったデッサンを自宅に飾り、写真に撮って先輩に見せたら、軽い騒ぎになった。
「美術館に寄託したほうがいいんじゃないか。紫外線とか空調とか管理できないだろ」
「二酸化炭素で殺虫処理しないと」
「何があっても絶対に売るなよ、お前」
「セキュリティ強化しろよ」
「保険かけておいたほうがいいぞ」
25歳一人暮らしの社会人では対応しきれないことを次々に言われ、頭がくらくらした。どうしたらいいんだろう。寄託って、そもそもどうやるんだ? とりあえず美術館の代表番号に電話をかければいいんだろうか。費用はどのくらい? 俺でも払える金額だといいんだけど。
途方に暮れて気を失いかけたとき、気付け薬のように内線の呼び出し音が鳴った。俺は背筋を伸ばし、席を立つ。
「いってきます!」
コーヒーを淹れた紙コップを慎重に慎重に運び、新しいクロッキー帳から一番離れた場所に置いた。
「コーヒーを運ぶの、上手くなったじゃん」
そう言って笑う先生は、真新しいウニクロのパーカーを着ていた。
俺はもう一度お礼とお詫びを言ってから席に着く。
「あのデッサン、どうしたらいいか悩んでて…」と、額装した写真を見せながら経緯を話した。
「美術館に寄託ぅ? みんな他人事だから、簡単に『美術館』って言うんだ。世の中の人が作品に対して口にする『美術館』の九割は本気にしなくていいよ。捨てる時はシュレッダーにかけるか、燃やして」
「絶対に捨てませんけど」
俺はふるふると頭を振った。先生は肩の力を抜いて笑い、頬杖をついて、上目遣いに僕を見た。
「あとね、そもそも論だけど。ダメだよ、ほかの人に見せちゃ。ラブレターだって言っただろ?」
至近距離の上目遣いに、俺の心臓は跳ね上がった。とくとくと打つ脈に声も震える。
「す、すみません。ラブレターをもらうのが、初めてだったんで。舞い上がりました」
額に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら、俺は頭を下げた。
「大切にしてもらうのはうれしいけど、美術館なんて大げさ。普通に大切にしてもらったら、それで充分だよ」
「はい! 普通に大切にします!」
俺の返事に、先生はさらに笑った。
「僕たち、友だちになろうか」
先生は、パーカーのポケットからスマホを取り出し、SNSアカウントのQRコードを表示させた。俺のスマホに読み取らせ、友だち追加ボタンを押してから、返してくれた。
「プライベートのアカウントだから、口外無用ね。でも気軽に話しかけて。起きてたら返事するよ」
笑顔で手を振って帰っていく先生を、俺は頭も下げず、うっとり見ていた。午後のはちみつ色の光が先生の姿を引き立てていて、美味しそうに見えた。
「先生が美味しそう? しっかりしろよ、俺。先生はパンやチーズじゃない」
地下鉄へ入っていく先生が振り返ってもう一度手を振り、俺も手を振り返して、見えなくなるまで見送ってたら、急に強い寂しさが押し寄せてきた。
ペンを持ってゲラをチェックすれば、シャーペンを持つ先生の手元を、窓の外を見て目を休めれば、景色を眺める先生の横顔が思い浮かべた。
さっき別れたばかりなのに、めちゃくちゃ会いたい。
俺は寂しさを振り切るように、ゲラに赤を入れまくった。でも帰宅したらまた寂しさが押し寄せてきて、俺はまだ何も書き込まれていないSNSのトーク画面を見つめていた。『佐藤涼』という本名を見つめて悶々とする。
「作家に気軽に話しかけてって言われて、気軽に話しかけられる編集者なんているのか? いや、編集長あたりはやってそうだけど。あれは長年の経験と実績で、作家のほとんどが年下になってるからできる所業だよな。でも話しかけてって言われてるのに、話しかけなかったらもっとダメだよな。どうしよう! 先生と一緒にいるうちに、スタンプ一個だけでも送っておけばよかったあああああ!」
スマホを持ったままベッドに倒れ込み、頭に枕をかぶって悩む。
「友だちって言葉に騙されたよな。友だちに連絡するなら、家に帰って落ち着いてからって思っちゃうもんな。マジでどうしよう! つらい、もう家に帰りたい。帰ってるけど!」
守るべきは、ビジネスマナーか、友だちマナーか。
枕を抱いてのたうち回っていたとき、スマホが震えた。
ともだちにシェアしよう!

