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どしゃぶり洋菓子店(1/2)

 スタッフが『夏さん、お先です』と帰り、一人きりで小麦粉をふるっていたとき、店のドアを叩く音がした。 「お願いします! ケーキが食べたいんです! ケーキが! ケーキが!」  営業時間が終わっていても、開けてくれと無理を言う客はたまにいる。  ケーキは人を笑顔にするためのものだから、なるべく対応してあげたい。 「ひ……っ!」  ガラスドアの内側に引いていたカーテンを開け、僕はあとずさった。  ドアいっぱいに男がへばりついている。顔の右半分をガラスに押しつけ、呼吸するたびに漫画の吹き出しのように鼻息でガラスが白く曇る。  血走った目がギョロギョロ動いていて、これは絶対に対応しちゃダメだと思った。 「きょ、今日は終わりです!」  CLOSEの札を示してカーテンを閉めた。その直後、ギイッと音がして、カーテンが風に揺れる。ゆらりと男が姿をあらわした。 「な、なんで?」 「引いたら、開いた」 「そ、そう」 『鍵、開けといていいよ』と言った10分前の自分の首を締め上げたい。  警備会社を呼ぶボタンはどこだっけと考えていたら、突然目の前の男が床に崩れ落ちた。 「うわあああああん!」  僕のエプロンに顔を埋めて泣いていて、身動きがとれない。 「や、やめて。やめて。こわいから、こわい」  男の泣き声が大きすぎて、僕の声は届かなかったようだ。  とにかく逃げよう、通報ボタンを押そうと思って、エプロンの紐を緩めて脱ぎ落とし、男を刺激しないよう静かに動いた。 「待って。ケーキ! 店の在庫全部買うから! 金ならあるからあああああああ!」  正面から両足にタックルされ、今度は股間に顔を埋められて、僕は尻もちをついた。 「そんなとこに顔、やめて。顔、顔」 「俺、上手いよ。咥えてやろうか?」  泣き腫らして血走った目で見上げ、男は笑う。 「お断りします!」  みるみるうちに男の表情は歪み、再び号泣し始めた。 「うわあああああん! ケーキあるだけ食べさせてえええええ」  僕もケーキを食わせたいと思った。睡眠薬や麻酔薬を混ぜたケーキを食わせたい、と。 「男がいたんだ。家に帰ったら、部屋に男がっ! 若くてむっちりしたヒゲ坊主がいてっ! アタシの彼氏のケツにでかいイチモツを出し入れしてて……うわあああああああああああ」  タックルされたままの僕は、しかたなく頭をなでてあげた。 「誤解しようのない、決定的な状況だね。ご愁傷さま」 「アタシはっ! アタシが悔しいって泣いてるのが悔しいのっ! あんなヤツのことを考えて泣く時間なんてもったいない。アタシはすぐに泣きやみたいの。そして……」  男は顔を上げる。鼻水と涙とよだれでぐちゃぐちゃだ。 「そ、そして?」  ベチャベチャの顔面にドン引きしながら聞き返すと、男はまた僕の股間に顔を埋めた。 「アタシを泣き止ませることができるのは、この店のケーキだけなのよおおおおおおおおおおおお」  泣き声が店の壁や天井に反響して、鼓膜がビリビリと震える。  事情を聞けば、さすがにちょっと気の毒だし、そんなに僕のケーキをと言ってくれるなら。  僕は仕方なく立ち上がり、冷蔵庫にしまっておいたケーキを出した。 「どれがいい?」  バットには七種類、十三個のケーキがあった。 「全部っ!」 「そんなに食えるわけないだろ」 「全部っ!」  とりあえずイチゴのフレーズを皿にのせて出した。男は小さなフォークでケーキを切り出し、口に運ぶ。 「あはーん、これよぉ。つやつやのクリーム! キメの細かいスポンジ! いちごの甘さを引き立てる控えめな甘さと、全体の調和!」 両手で頬を押さえ、肩を揺らして喜ぶと、僕を見た。 「次」  レアチーズケーキを出して、気づいてコーヒーを落とした。香ばしい香りが広がる中、男はレアチーズケーキを口に含み、唇の前に揃えた指先をあてている。 「このケーキ、全部あんたが作ってるの?」 「あ、うん」 「天才ねえ」 「あ、いや。どうも」  小さく頭を下げているあいだに、レアチーズケーキを食べ終えた男は僕を見る。 「次」 「じゃあ、夏みかんのタルトをどうぞ」 「アタシ、これは初めていただくわ」 「夏みかんのタルトは今年の新作。カスタードクリームの味つけや炊き方が工夫してあるんだ。食べてみて」  男は夏みかんのコンポートとカスタードクリームとタルト生地をさっくり切り出して、口の中へ入れた。 「さっぱりした夏みかんと、濃厚でなめらかなカスタードクリームがよく合ってる。カスタードクリームからも夏みかんの風味がするわ。タルト生地もほろっと崩れて、口の中で混ざると最高に美味しい」 「カスタードクリームは、卵黄を多めに使って低温で炊いたんだ。オレンジリキュールと、すりおろした夏みかんの皮で風味をつけて、夏みかんのコンポートと仲良くさせてる」 「『仲良くさせてる』なんていいわねぇ。仲良くさせるためには、こういう工夫も努力も必要なのね。アタシはそういう工夫や努力がたりなかったのかも」  そういう男の目にはまたもや涙が盛り上がったが、ズルッと鼻をすすっただけで泣き止んだ。 「ケーキを食べてるのに、泣いたらダメよ。甘いケーキがしょっぱくなっちゃう」  男はひと口食べるごとに美味しい、美味しいと笑顔になっていった。  僕だって毎日ケーキの魔法の力を信じて作っているけど、ここまで効果があるとうれしくなる。  コーヒーのおかわりを淹れてあげようと、店の入口に背を向けた瞬間、またドアが開いた。 「コウちゃん! やっぱりここにいたんだね!」  新しく増えた登場人物に、僕は嫌な予感しかしなかった。

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