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僕だけの桜
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
凌は店を出るとき、必ずそう言う。しかも笑顔で。
根っからの営業マンだなと思う。
僕はどれだけがんばっても、「どうも」くらいしか言えない。
店を出て、桜の花びらがころがるアスファルトの上を歩きながら、僕は言った。
「凌は、きちんとお礼が言えてえらいね」
子どもを褒めるような言葉にも、凌は笑顔を輝かせる。
「相手のいいと思うところを素直に褒められる、玲央もえらいと思う」
かえって褒められて、僕は戸惑いながら照れた。
マッチングアプリで知り合ってみたら、会社の同期、しかも同じフロアで働いてるヤツだった。
「渋谷のスタバに玲央が入ってきたのを見たとき、余裕で三度見した。五度見くらいしたかも」
「僕だって。でも、窓際のカウンター席にいる男性って、凌だけだし。スタバでコーヒーを避けてほうじ茶ラテを飲んでるなんて、絶対に凌だよねって」
驚いたし、会社の同期ともなれば、話が変わってくる。その日は世間話で終わった。でも、秘密を共有する楽しさはあって、週に一、二回ご飯を食べに行き、互いのことを話した。
線路沿いの道を歩き、川に行き当たる。
左に行けば駅だけど、凌は右を指さした。
「こっちでもいい?」
自販機で凌は麦茶を、僕は缶コーヒーを買って川沿いの道を歩く。
地元の小学生が書いた壁画を見ながら高架をくぐると、川辺に緩やかな階段が広がる。
その中ほどに並んで座り、街灯に光る川面を見た。
「スタバで会ったときの玲央の髪型、すごいよかった」
凌の手が伸びてきて、僕の前髪を押し上げる。夜風に冷えていた額に、凌の手の熱が際立つ。
「ほら、やっぱりかっこいい。すごい好き。どきどきする」
「毎日はしないよ、面倒だから」
「しなくていい。ライバルが増えたら困る」
「何それ。独占欲?」
「そうかも……っていうか、独占欲そのものだな」
耳を赤くして笑う姿に、僕はくすぐったい感じがして笑った。
「玲央はないの、俺を独占したい欲求は?」
「あるけど、言ったら凌が困ると思う」
「気になる! 教えて」
顔をのぞき込まれて、僕は本当に困ったけど、僕の肩を抱いてのぞきこんでくるから、しかたなく言った。
「僕以外の人に笑いかけてるのを見ると、ちょっとモヤる」
凌は革靴を履いた両足をパタパタ鳴らして笑った。
「お前、そんなこと考えてたのかよ!」
「だる。言わなきゃよかった」
「なんで、なんで。言ってくれてうれしいけど」
麦茶を勢いよく飲んで、手の甲で唇を拭い、凌は軽く深呼吸した。
それからもう一度深呼吸をして、川面を見ながら言った。
「こういう独占欲ってさ。俺たちは恋人同士です、お互いが一番ですって定義をすれば、ある程度解決すると思わねぇ?」
僕は缶コーヒーを一口飲むあいだ考えてから、うなずいた。
「そうかもね」
凌は身体の向きを変えて、真面目な顔で僕を見た。いつもみたいに笑っていないその目に、心臓をつかまれたような気がした。
一瞬、凌は空を見上げた。頬をふくらませ、すぼめた唇から細く息を吐く。
凌はまっすぐに僕の目を見た。
「一過性で終わらせたくないんだ。玲央を、ずっと独占していたい。きちんと恋人として、俺と付き合ってください」
川のせせらぎも、遠くの電車の音も、全部消えたみたいだった。凌の声だけが、耳の奥に低く響いて、頭がクラクラした。
近いうちにこういう瞬間が来ると予想していたはずなのに。週に一度の食事で凌の笑顔にドキドキして、二人きりの時間をきちんと重ねてきたから、きっと大丈夫だとわかってる。でも、この瞬間、凌の真剣な目に吸い込まれて、急に緊張した。
缶コーヒーを握る手に力が入って、冷たい感触が掌に食い込んだ。
「うん」
ようやく小さな声が出た。
「ぼ、僕も、凌とちゃんと付き合いたい。よろしくお願いします」
凌の顔に、いつもの笑顔が戻った。川風で冷え始めていた手をそっと握られる。その温もりに、胸がさらに熱くなった。
「めちゃくちゃ幸せ!」
まるで桜の花びらが舞うみたいに、凌の笑顔は明るくて、眩しくて、たまらなく愛おしかった。
桜の見頃は過ぎたけど、彼の笑顔は僕にとって、散ることのない満開の桜だと思った。
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