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カウンター越しに届く春(5/5)
幸い、仕事がとても忙しかった。
書類の記入ミスを直してもらうために内線をかけまくり、書類を配ったり回収したりと社内を歩き回り、健康診断のスケジュールを調整し、直前の変更にも笑顔で対応する。限度はあるけど。
「法律で決まってるんです。忙しいのはわかるんですけど、会社にもペナルティが課せられるんで」
お客様のスケジュール優先で動く部署の人ほど、健康診断をめんどくさがる。
部長会議でも念を押してもらうけど、最終手段は僕が席まで迎えに行って、検診車までご案内する。
幼稚園児だって、送迎バスには自分で乗り降りできるのに。内心へとへとになって自席に戻ったら、葉山さんが僕を見た。
「今から代休とってくれ。今日の午後と明日の午前で、一日分ってことで」
突然放り出されて、僕は明るい昼間のオフィス街、すっかり花が消えた葉桜の下を歩いた。
桜の葉の香りから桜の塩漬けを連想し、『居酒屋さくらぎ』で出してもらった酒やゼリーを思い出した。
まだ僕は気持ちを引きずっていて、店へ行くことはしたくない。でも自分で再現して飲むくらいなら、いいんじゃないかな。
検索して、駅近くの製菓用品を扱う店に入った。
粒状のチョコレートや、すみれの砂糖漬け、さらしあんの粉、星屑みたいなアラザンなど、あまり縁のない製菓材料を見て歩き、桜の塩漬けの瓶を見つけて手を伸ばした。
同時に手を伸ばす人がいて、互いの手の甲が触れる。
「あ、すみません」
「こちらこそ、すみません」
挨拶しあって、僕は心臓が止まるかと思った。
「桜木さん! 仕入れですか?」
「そう。波留は元気? 店に来ないから、気になってた。連絡先を聞いておけばよかったと思ったけど、カウンター越しだとタイミングがなくて。また会えてうれしい」
やっぱり太陽の笑顔だった。
「僕も、桜木さんに会いたかった。でもあんまり通い詰めたり、連絡先を聞いたりするのは、迷惑かなって」
「うん、俺は客とは連絡先の交換はしないけど。波留とは連絡先を交換したい」
取り出したスマホで連絡先を交換したら、かわいい柴犬のアイコンだった。
「実家の犬。イヌヲっていう名前」
笑いながら教えてくれて、僕も自分のアイコンを説明した。
「この前、『居酒屋さくらぎ』っていうお店で、サービスでもらった、桜ゼリー」
「おいしそうだな。誰が作ったんだろうな?」
「ね? 誰が作ったんだろうね」
僕たちは肩をぶつけあって、笑いあった。
「仕込みがあるから、店に戻らなきゃ。一緒に来ない?」
そう言った桜木さんは、駅まで近道をするために公園へ足を踏み入れた。
「八重桜が咲いてる。波留は八重桜は好き?」
「うん、好き。八重桜には、八重桜のよさがあるよね」
たくさんの花弁を重ねて丸く咲く花は、花期も長く、落ち着きと頼もしさを感じる。
風に吹かれて優しく揺れる八重桜と、静かに見つめる桜木さんの横顔が重なった。
桜木さんは、真面目な声で言う。
「恋愛をするなら、こうやって丁寧に積み重ねる恋愛をしたい。たった数日ではなかく散って、面影を思い出すだけのような恋愛は寂しすぎる」
僕は桜木さんの横顔を見た。
「桜木さん、恋愛がしたいの?」
ゆっくりと桜木さんは僕の方へ振り返った。まっすぐ目を見つめられて、息が止まりそうに苦しい。
誰と、恋愛したいの? とは訊かなくても、ちゃんと僕だという気がした。でももっとはっきり確かめたい気持ちもあって、なんて言おうか迷っていたら、さらに問われた。
「波留は、俺と恋愛したくない?」
「したい。したいよ! 急に好きになりすぎて、どうしたらいいかわからなくなってたけど、僕も桜木さんと恋愛したい」
僕たちは見つめ合って笑い、店に向かって歩いた。店に着くまで何もしゃべらなかったけど、ときどき目が合っては、照れ笑いをして視線をはずした。
桜木さんが笑いながら肩で僕の肩を押してきて、僕も笑いながら押し返したとき、ちょうど店に着いた。
買ってきた材料をカウンターに置いた桜木さんは、てきぱきしていた。
「これを飲んで、ちょっと待ってて」
ドライジンにライムを絞って炭酸水を注ぎ、軽く塩抜きした桜の塩漬けを浮かべたものを、カウンター越しに渡された。
すっきりした味の中に、桜のふんわりとした風味と軽い塩気が合っていて、とてもおいしい。
桜木さんはカウンターの内側に置いた時計を見ながら、テンポよく動き回る。
四角いトレイにお通しの小鉢を並べたものを三セット用意しところへ、塩抜きした桜の塩漬けを刻み、サイコロ状に切ったクリームチーズと和えたものをスプーンで盛りつけていく。
できあがったお通しは三段に重ねて冷蔵庫にしまわれ、次に出てきたのは新鮮なサバだった。峰の厚い出刃包丁がサバの背骨にそって滑り、頭と身を断ち切られて、あっという間に三枚に下ろされる。バットに並べられ、塩の粒を振りかけられると、斜めに立てかけられた。まるで額に収められた美術品みたいに藍と銀の縞模様が光る。
ほっけやいか、鶏肉など、次々に下ごしらえする手や、笑みを浮かべない真剣な横顔を見て、僕は桜木さんのことを、もっともっと好きになった。
葉山さんが代休を取らせてくれなければ、こんな桜木さんの姿を知ることはなかった。僕は心の中で、葉山さんに感謝した。
「誰か、違う人のことを考えてただろ?」
突然、耳元でからかう声がして、気づいたらカウンターの内側はきれいに整頓され、僕のすぐ隣に桜木さんがいた。
「違う人っていうか、仕事のこと。葉山さんに検診車の対応を押しつけて、代休もらっちゃったから」
桜木さんはちょっと唇を歪めて肩をすくめた。
「この間、一緒に来ていた男か。バチバチに牽制されたもんな」
「牽制?」
「なんでもない。波留は俺と恋愛するんだろう?」
「うん」
桜木さんは、スツールに座った僕の隣に立ち、僕の手をとった。
「改めて。俺と恋愛してください。波留のことをもっとよく知りたいし、俺のこともよく知ってほしい。大切にします」
僕も桜木さんの手を握り返した。
「よろしくお願いします。ちゃんと向き合いたいです。大切にします」
カウンターを越えてきた桜木さんと僕は、しっかりと抱き合った。桜木さんの温もりに胸が熱くなる。そのまま僕たちは引き合うように自然に唇を重ねた。
桜の塩漬けが揺れるグラスの中で、桜の香りをまとった氷がからんと響く。
僕たちの春は始まった。
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