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カウンター越しに届く春(4/5)

「ようこそ。店主の桜木です。男性同士で恋愛してもいいと思うけど、波留に決まった人がいるのかと思って、ちょっと驚いた」 「もー。葉山さんは、いっつもそういう冗談を言うんです。セクハラだから!」  怒りに任せてお通しの白磁の小鉢に手をつける。中にはクリーム色のポタージュがあり、その上に桜えびがあしらわれていた。  木のスプーンですくって口へ運んだら、甘くてほっこりする味が広がる。僕は桜木さんを見た。 「これ、おいしい! 緊張がほぐれる」 「玉ねぎのすり流し。もし今日も波留が来るなら、もっと疲れてるかなと思って、胃に優しいものを用意しておいた」  そういう桜木さんと目が合った。瞬間、耳がちょっと赤くなっているように見えて、心臓が軽く跳ね上がる。  桜木さんはトッピングされている桜えびを示す。 「この桜えびは駿河湾産だ」 「桜木さんの地元の桜えびだね。あ、地元がどこか覚えてるなんて、ストーカーっぽい?」 「俺が自分で教えたんだから、覚えていてくれてうれしい。俺だって、波留が千葉出身だって覚えてる」 「僕も、うれしい」  僕はくすぐったい感じがして、肩をすくめる。  葉山さんは僕の背中をぽんぽんと叩いて、顔をのぞきこんできた。 「波留は母親似だよな。性格は父親似かも。波留の実家に遊びに行くと、波留のルーツがよくわかる」 「葉山さんは、波留の実家に行ったことがあるの?」  桜木さんの問いに、葉山さんは桜木さんを睨みながら「何度も!」と答えた。桜木さんは軽く目を見開き、シンクに重なった皿を洗い始めた。 「波留の故郷は、とてもいいところですよ。緑が豊かで、空気も水もきれいで。あの環境でご両親の愛情を一身に受けて育つと、波留みたいな素直な可愛いやつが育つんだなとわかります。俺が責任持って大切にしなきゃ。なー、波留?」 「べ、別に自分のことは、自分で大切にします」  ぎゃあぎゃあ言い合っていたら、桜木さんが瓶ビールと冷えたグラスを出してくれながら言った。 「波留の故郷、いいところなんだな。俺も行ってみたい」  太陽みたいな笑顔を向けられて、僕は全力でうなずいた。 「ぜ、ぜひ。ぼ、僕も桜木さんの実家、行ってみたい!」  言い過ぎかなと思ったけど、桜木さんもうなずいた。 「いいよ。いろいろ案内するから、歩きやすい靴で来て。富士山もよく見えるし、食べ物もおいしいし、楽しめると思う」  具体的な返事をもらって、桜木さんとのデートを妄想していたら、葉山さんに脇腹をつつかれた。  「でもお前、天井に貼ってある野球選手のポスターは、剥がしておいたほうがいいぞ」 「いいじゃん、貼ってあったって!」  軽口を叩いて絡んでくる葉山さんと一緒に、おいしい料理を食べ、店が混雑する前に店を出た。  会計するとき、カウンターの内側に桜の塩漬けの瓶があるのに気づいた。僕の恋の花は、咲くだろうか。あるいは塩漬けのまま朽ちていくのだろうか。 「ねえ、どう思った? 脈、ありそう?」  葉山さんは、せっかちに問う僕を無視するように歩く。そして店からも駅からも離れた小さな神社の前で足を止めた。  僕に背中を向けたまま、葉山さんは静かに口を開いた。 「あくまでも俺の主観だけど。あの男の言葉と笑顔は営業用だと思う。客あしらいが上手いだけで、波留に特別な感情はない。もし俺だったら、すぐにお前の連絡先を聞くし、次の約束をとりつける。そうしないから、あの男は、その程度の気持ちなんだと思う。少なくとも、俺の目にはそう見えた。俺よりいい男なんかじゃない。正直に言い過ぎて、ごめん」  僕の胸はずきずき痛んだ。まるで心臓から血があふれ出て、貧血になったんじゃないかと思うくらい、目の前がくらくらした。  葉山さんは肩越しに僕の顔を見て苦い顔をして、すぐに顔を背ける。  僕は頬の内側を噛み、両足を踏ん張った。 「ごめん、なんて言わないでください。ありがとうございます。僕が舞い上がっちゃってました。まだ全然深入りしてないし、大丈夫です。切り替えます」  手水鉢に浮かぶ桜の花びらは傷だらけで、わずかな夜風にも逆らえないまま揺れていた。そこに太陽のように笑う桜木さんの幻影が重なって、僕は龍の口から出てくる水で顔を洗った。どこからか桜の塩漬けのような若葉の香りがして、僕は何度も顔を洗った。 「もう一軒行くか。俺がおごる」 「ゴチになります」  何もしゃべらなくても、ぼんやりしていても勝手に盛り上がるスナックへ連れて行ってもらった。調子外れなカラオケや下品な合いの手を聞きながら、レンジで解凍しただけのフライドポテトを食べた。  桜木さんなら、じゃがいもをどんな風に料理するだろうか。誰がオーダーしても、太陽の笑顔とともに差し出すんだろうな。  でもそれは、僕だけに向けられる笑顔じゃない。そう考えてかぶりを振り、先輩のボトルを空にした。

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