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カウンター越しに届く春(3/5)
「今日はお客さんが少なかったから、僕と話す時間が多かっただけ」
帰り道、若葉が萌える桜並木の下を歩きながら、僕は何度も自分に言い聞かせた。
「そんなに都合よくはいかないよ。男を好きになる男って、すごく割合が少ないんだから」
そんなこと、ないない。勘違いするなよ、波留。
「でも、僕は桜木さんのこと、好きになっちゃった? たった二回しか会ってなくて、ただお金を払ってお酒と料理を提供してもらっただけなのに?」
アスファルトの上に広がる桜のじゅうたんを、一歩ずつ踏みしめるように歩きながら、僕は今日の桜木さんの姿を思い返した。
あの試飲のモヒート、僕だけに出してくれなかった? 目が合う回数、多くなかった? 僕がおいしいって言ったとき、顔も耳も真っ赤じゃなかった?
「待て待て。誰に対しても、桜木さんは同じように接してると思うよ。僕が、桜木さんを好きになっちゃったから、片思い補正しちゃってるんだ。顔や耳が赤くなりやすい体質なんだ、きっと」
桜並木の終わりで、僕は足を止めた。ハート型の花びらがひらひらと落ちていく。
「僕、桜木さんを好きになっちゃったのかなぁ」
いやいやと頭を横に振っても、脳内のスクリーンに映し出される、桜木さんの笑顔は消えない。
「もう一回、桜木さんの顔が見たいな」
歩いてきた道を振り返ったが、さすがに店に引き返すのはやめて、帰宅した。
布団に入って、部屋の明かりを消す。暗闇の中ではかえって意識が集中して、もっと桜木さんのことを考えてしまった。
また店に行ったら笑顔で迎えてくれるかな。
そんな僕の妄想はどこまでも広がっていく。
たとえば偶然どこか、駅前とか店の近くの道とかで、桜木さんと会ったりしないかな。「時間があるなら、コーヒーでも行く?」なんて話になったりして。
桜木さんは、すっきりした水出しアイスコーヒーを飲みそうに見えて、生クリームたっぷりのフラペチーノなんか飲んだりするかも。そういう桜木さんも好きだなあ。
連絡先も知らない人のことを、僕は夢の中まで考え続けた。
「ダメだ、この恋はほとんど病気だ」
桜木さんに肩を抱き寄せられ、キスをする夢まで見てしまって、僕は頭を抱えた。会社へ行く電車の中でも桜木さんのことばかり考えたし、自分の席について社会保険料を入力する合間にも、桜木さんのことを考えた。
今日も店に行こうかな。
三日連続は行き過ぎじゃないかな。
不審者には思われたくない。
もし行かなかったら「今日は波留が来ないな」なんて思ってくれるかな。
「そんなことは、思わないだろ! ない、ないっ! 絶対にないっ!」
職場だったのを忘れて声を出し、向かいの席の先輩の葉山さんが立ち上がり、モニターの上から顔を出す。
「何がないんだ? 一緒に探そうか?」
「あ、いえ。あります、大丈夫です。ちょっと発狂しました」
「繁忙期だからな。悩み事があるなら、早めに言えよ」
そう言ってくれた葉山さんの言葉を頼り、僕は昼休みに悩み事を打ち明けた。
「はあ? 居酒屋の店主に惚れたあ?」
「ほ、惚れたっていうか。惚れたんですけど。とにかく声が大きいです!」
僕は自分の唇の前に人差し指を立て、葉山さんを非常階段の隅に引っ張って行った。
「そもそもお前、俺のことが大好きだったんじゃないのか」
「またそういう冗談を言う。セクハラですから、それ。僕は葉山さんのことなんか、これっぽっちも好きになったことはありません!」
きっぱり宣言してから、葉山さんを拝んだ。
「とにかく、今夜は僕がおごりますから、一緒に店に行ってください。可能性がありそうかどうか、一緒に桜木さんの反応を見て! お願い!」
定時に強引に仕事を終わらせ、葉山さんの背後に立ち続けてプレッシャーをかけ、彼の仕事も終わらせて、『居酒屋さくらぎ』に向かった。
開店したばかりの店内は誰もいなくて、カウンターの真ん中より少し奥に僕たちは案内された。
「三日連続で来ちゃって、すみません」
恐縮する僕に、桜木さんは太陽のような笑顔を見せる。
「波留なら、毎日来てくれても大歓迎だ」
その笑顔と言葉に僕は完全にのぼせて、葉山さんに肩を叩かれる。
「俺のこと、ちゃんと紹介しろ」
「あ、こちら会社の先輩で、葉山さんです」
手のひらで示すと、葉山さんは僕の肩を抱いて笑った。
「葉山です。波留の彼氏です」
堂々と胸を張る姿に、桜木さんのグラスを拭く手が止まった。
「ちょ、やめてよ。違うから! 違います!」
桜木さんは肩の力を抜いて笑い、お通しを出してくれた。
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