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カウンター越しに届く春(2/5)

「明日からは俺の実家の裏山で採れたタケノコを出せると思うし、来週には山菜をやるから、よければまた来てよ。そろそろ新じゃがも入るかな」  そんなことを言われて、店を出た。 「また行っちゃおうかな。タケノコ食べたい」  そう言いつつ思い浮かぶのは、タケノコではなく、桜木さんの笑顔だった。  板前らしい清潔感のある出で立ちなのに、白い歯を見せて笑う笑顔は少年みたいで、おひさまの匂いを想起させる。  帰宅して布団に入って目を閉じるまで、その笑顔はしつこくまぶたの裏に残っていた。  次の日も、仕事は全然ラクにならないどころか、複雑化していた。急な異動や休職の対応にくわえ、入社式当日交通事故に遭って入院し、無断欠勤していたけど今から入社できますか、なんて問い合わせがあった。通勤途中の事故は労災保険の通勤災害にあたる可能性があるけど、入社式当日が労働に当たるのかどうかの判断は難しいらしく、その確認や話し合いのセッティングにも追われる。 「誰も悪くない。誰も悪くない」  僕は自分に言い聞かせながら、ひたすらToDoリストを作って消しこみ、更新し、仕事をした。  仕事は終わってないけど、僕の集中力が終わった。もう無理。 「ああ、タケノコ」  行こうかどうしようかなんて迷っていたのは昼過ぎまでで、疲れきった僕の頭にはもう迷いは残っていなかった。  会社を出て、脇目も振らずに店を目指す。 『居酒屋さくらぎ』ののれんをかき分け、引き戸を開けた。 「いらっしゃいませ。おや、昨日にも増して疲れてるな」  桜木さんが笑いながら、割り箸と紙コースターを置いてくれた席に座り、おしぼりを受け取って、僕は大きく息を吐く。 「きつかったぁ! ずっと働いてるのに、帰る時には朝よりも仕事が増えてるんだもん。置いて帰ってきちゃったけど!」 「どこかで区切りをつけて休まないと、身体を壊すからな。いい判断だったんじゃないか」  そう言って、瓶ビールとお通しを出してくれた。  小鉢にはわかめとタケノコの炊き合わせがあった。 「これが実家のタケノコ?」 「そう。今朝採れたものを持ってきてくれたんだ」  えぐみがなく、ほのかな甘みがあって、爽やかな歯ごたえが心地いい。春の香りがする。つるりと喉を通るわかめと、あっさりした出汁が、とてもよく合っていた。 「すっごくおいしい! 春を食べてるって感じがする! ウチの実家でもタケノコ採れるけど、もっとエグいよ」 「実家、どこ?」 「千葉の山奥。桜木さんは実家、近いの?」 「新幹線で30分くらい。俺がなかなか帰省しないから、親がタケノコを持って顔を見に来るのが、恒例行事」  アスパラガスのはかまを取り除きながら、桜木さんは笑った。 「実家は帰らなきゃダメだよ」 「おっしゃる通り」 「僕も全然帰ってないけど」 「同罪だな」  僕たちが笑っていたところへお客さんが来て、会話は途切れた。  でもオーダーをとり、僕が頼んだアスパラガスの酢味噌和えとたらの芽の天ぷら、海苔と桜えびのかき揚げを並べたら、また話しかけてくれた。 「名前、聞いてもいい?」 「鈴木波留です。鈴木っていっぱいいるから、波留って呼んでください」 「波留はアレルギーや嫌いな食べ物はない?」 「なにも。パクチーはちょっと苦手かな」 「じゃあ、これをちょっと味見して。疲れがスッキリするかも」  差し出されたのはグラス一杯のモヒートだった。桜の塩漬けがあしらわれている。 「わあ。桜の香りとライムの味がすごく合う! 満開よりも、葉桜の濃い緑色って感じ。リフレッシュされて、疲れが癒えるよ。おいしい」  モヒートは、歯触りのいいアスパラガスの酢味噌和えや、ほろ苦さが春を感じさせるたらの芽の天ぷら、さくさくと香ばしい海苔と桜えびのかき揚げともよく合った。 「おいしい。語彙力がなくて悔しいな。めちゃくちゃおいしい! 春をまるごと食べてる感じがする」  夢中になって味わう僕を見て、桜木さんは目を丸くし、それから少し考えて冷蔵庫に向かった。小さな小鉢を手に戻ってきて、太陽のような笑顔を輝かせる。 「波留がそんなに喜んでくれると、俺も作りがいがある。うれしいから、これはサービス」  桜木さんは耳をちょっと赤くしながら、桜の花びらを閉じ込めた、一口サイズの透き通ったゼリーを出してくれた。  あまりにもきれいだったので、許可をもらって写真を撮った。  僕は五感のすべてを春で満たされ、大満足した。  花見ができなかった悔しさも、やってもやっても終わらない仕事の大変さも、おいしい春風が吹き飛ばしてくれた。 「今年は桜木さんにお花見させてもらっちゃった。とってもおいしくて、楽しくて、幸せなお花見です。ありがとうございます!」  僕が礼を言うと、桜木さんは顔も耳も真っ赤にして笑い、顔の前で手を振った。 「波留は褒め上手だな。そんなに褒めたら、照れるだろ。でも、俺も花見ができなかった波留に、桜や春を感じてほしくて料理や酒を作ったから、そう思ってもらえるのは、とてもうれしい」  氷水を飲もうとするから、慌てて生ビールを注文して飲んでもらった。  気持ちよさそうに動く喉に、なぜか僕はどきどきした。  半分ほど飲み干し、僕に向かってにっこり笑う。その少年のような笑顔にまたどきどきして、僕は顔が暑くなるのを感じた。  いやいや、桜木さんは客商売の人だから。これだって営業スマイルだし。僕は仕事で疲れすぎて、感覚がおかしくなってるんだ。きっとそう。落ち着け、僕。落ち着くんだ。

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