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カウンター越しに届く春(1/5)

 今年の新入社員は12名の予定だったけど、一人が入社式に来なくて、もう一人は翌日に退職代行会社から連絡が来たそうだ。  12名分の書類を封筒に入れて準備してたのに! などと嘆くのは早い。総務の戦いはここからが本番だ。 「すみませーん、総務の春川です」  緊張している新入社員に声をかけ、おどろいて肩を震わせるのを優しい声で落ち着かせる。 「住所にマンション名が入ってなくて。書いてもらっていいですか? 細かいことで申し訳ないんですけど、このまま社会保険事務所に持って行っても、受け付けてもらえないんです」  柔らかく、笑顔でお願いしつつ、その場でしっかり記入させないと、新入社員分の加入届が提出できない。  入社から五日以内に提出する義務があるから、内心ひやひやする。  そして自席に戻った直後に、別の新入社員の生年月日が抜けていることに気づく。  僕はすぐに立ち上がった。  フットワーク軽く動かないと、自分の首を自分で絞めることになる。  しかも新入社員だけではなく、中途採用者もいる。年金事務所に電話して前職の脱退日を確認したり、本人に年金手帳の提出を催促する。前職の総務が離職票をなかなか発行してくれなくて、そちらにも催促の電話をかける。  結局、昼食は食べ損ねたまま、気づけば時計は18時を回ってる。入社式から三日目、加入届の提出期限まであと二日。社会保険事務所の窓口は17時で閉まるから、明日まとめて持ってくしかない。でも、この時期、事務所は行列で、書類にミスがあれば即アウトだ。  なぜこのご時世に手書きなのか。マイナンバーカードを普及させてるくせに、なぜこんなにも手入力なのか。かえって作業は煩雑で、個人情報の取り扱いは緊張を強いられる。いろんな不満を飲み込みながら、黙々と残業する。  明日、誰にどこを直してもらうか、付箋を貼ってようやく息を吐いた。 「お先に失礼します」  人事チームの髪の毛が暴発してるのを見ながら、僕は会社を出た。 「あー、桜が散ってる」  見上げた枝にはもう若葉が広がり始めていた。今年もろくにお花見しなかった。  そんなことを考えながら、花びらが落ちた道を歩くうち、飲み屋が並ぶ路地に入った。  一人で飲むなら、家に帰ってから。明日もちょっと早く会社に行きたいし。  そのまま路地を通り抜けようとしたとき、店の裏からビールケースを抱えて出てきた人がいた。 「おひとり様、すぐご案内できますよ」  頭にタオルを巻き、白いシャツに紺色のギャルソンエプロンをつけた男性は、ビールケースを置いて腰を伸ばすと、人懐っこい笑みを浮かべた。 『居酒屋さくらぎ』  看板を見て、よく職場の人たちがランチを食べに来る店だとわかった。店は狭いけど、ランチはボリュームがあってとても美味しいらしい。  ちらりと見た料金表は僕の財布でも大丈夫そうだし、それならと店に入った。  間口が狭く奥に長い、カウンター十席だけの店は、客の楽しげな話し声がBGMという、アットホームな雰囲気だった。  カウンターの向こうからおしぼりとお通しを受け取り、まずは瓶ビールを頼む。  こういう店では瓶ビール、というのは職場の先輩に教わった流儀だけど、実際の味の違いはよくわからない。ただかっこつけて手酌で飲んで、隣の人の皿を見て、アジフライを頼む。  店主は「桜木さん」と呼ばれていた。どの客とも気さくに話す人らしい。  話題が豊富で、株価や為替の変動から、芸能ゴシップまで、どんな会話にも相づちを打つ。 「桜木さん、急がなくていいよ」 「お皿、こっちから回すからちょうだい」  そんな協力的な客の姿勢も、この店が効率よく回る秘訣なんだろう。 「アジフライお待たせ」  まだ表面の油がパン粉のあいだで光っている、揚げたてのアジフライが出てきた。  きつね色の衣がざくざくと前歯で砕け、大きくてふっくらした身から、口いっぱいに魚の旨みが広がる。 「おいしい!」  思わず口にした一言に、カウンターの中にいる桜木さんは、僕を見てにっこり笑った。 「ありがとうございます」  レモンでさっぱり食べても、ソースやマヨネーズをたっぷりつけて食べても、何をしても美味しかった。  昼を食べてなかったから、さらに鶏の唐揚げと厚焼き玉子を食べ、栄養バランスの悪さをほうれん草のごま和えで打ち消した。全部おいしかった。 「お疲れっぽいね。今日は仕事? 忙しかったの?」  桜木さんに話しかけられて、僕は顔を上げた。 「はい。年度始めはめちゃくちゃです。今年もお花見はできませんでした」 「お、キーワードが出たね。お花見ができなかったお客さんにだけ、サービスの一杯があるよ。日本酒は飲める?」  桜木さんは、冷酒グラスのふちに塩をつけ、塩抜きした桜の塩漬けを中に入れて、そこへ日本酒をついでくれた。  八重桜の薄い花びらが開き、日本酒の中でゆらゆら揺れていて、とてもきれいだ。  口に含むと桜の香りが立ち上り、満開の桜に囲まれているような気持ちになった。 「このお花見、いいですね。めっちゃ癒されます。こんなことができるなんて、桜木さん、すごいです!」 「よかった」  くしゃっと顔を歪めて笑うのが、照れたときのクセらしい。僕が褒めすぎちゃったのだろうか、桜木さんは少し耳が赤くしたまま、注文の入った春イカの刺身をさばきはじめた。

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