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第8話

思えば今日は朝から身体の調子がおかしかった。正確にはここ2週間ほど前からだが。 周期的にそろそろ来るはずなのだが、発情期(ヒート)が来ないのだ。 Ωの発情期は3ヶ月に一回、個人差はあるが一週間ほど続く。キキは成人してから投薬治療によるホルモン治療をしていた。 生殖器が発達していないから発情期はこない。しかしだからといってΩとして生きるのに楽だということにはならなかった。子宮は小さく卵巣も正常に活動を行わないので体温調節が難しかったり、気分にムラが出てしまう。倦怠感や慢性的な頭痛など挙げればキリがなかった。段階的なホルモン治療によってそれらの諸症状の改善が望めた。また、キキはどこかで子供が欲しかった。いつか、好きな人ができた時に、「自分の」証が欲しかったのだ。 長年のホルモン治療により近年は発情期は周期的に発情期が来るようになった。生活もしない頃よりはしやすくなり、生きる活力も湧いた。発情期中の苦しさもそれまでのことを思えばキキにとってはどうということはなかった。しかし、ほかの健全なΩに比べれば日頃からフェロモンの濃度は薄いので雄を誘う力は弱い。発情期も軽かった。そして、メンタルバランスや健康状態に人一倍左右されやすかった。 そう言うわけでキキは仕事のプレッシャーによるストレスをなくすため、いつも発情期周辺は仕事を入れない。しかし今回は先方の都合上どうしても撮影が後ろ倒しになってしまい、予定日周辺と被ってしまった。 誘発して起こしている発情期なので、特定の抑制剤により簡単に無力化できる。ただそれは身体の中を痛めつける行為なので医師からは止められていた。処方される弱い抑制剤も効くには効くが、体調によるとしか言いようがなかった。 仕事に穴は開けられない。そう思うと発情期は予定日の当日になってもこなかった。いいのか悪いのか撮影最終日までは発情期はこなかった、――最終日までは。 写真のチェックが終わり先方からもOKが出た。これで帰ることができる、そう思った瞬間にカラダからいつもより濃いフェロモンがどっと溢れた。キキは自分でもわかるそれに焦りを覚える。挨拶も程々に、自分の荷物のあるところへ急ぎ、カバンから抑制剤を入れているポーチだけを抜き取り一目散にトイレへ駆け込む。 その道中すれ違ったαが少しだけ反応したように見えた。 (やっぱりいつもより濃く出てるんだ) 個室に入り鍵をかけてから、処方された錠剤を噛み砕く。効力が弱められたそれは即効性の薬ではないのに加えて、効き目が短い。キキは急いで出てきたため携帯はカバンと一緒においてきてしまっていた。時間感覚が分からず、今どれだけ薬を飲んでから時間が経過しているのかが分からない。普段ならマネージャーの吉澤が居てくれるのだが、仕事が今日で終わりだからと先に帰してしまっていた。打つ手もなく、せめて楽になるまではここで立て籠もるしかない。しかし一向に抑制剤が効いてくる様子はなく、むしろその間にもどんどん身体が熱くなってきた。いつもと違う本格的な発情期にキキは戸惑いを隠せない。 (どうすればいいんだろう…。 こんなに意識がぐらつくのは初めて、…。) ここのトイレは誰でも利用できるトイレだ。 もしかしたら匂いが漏れてαが来てしまうかもしれない。今日の撮影で関わっただけでも少なくとも3人はαがいた。 (脳が馬鹿になって、自分が鍵を開けてしまったら?) 初めてに感覚に、どんどんと悪い方に考えが及ぶ。どうせ抑制剤は弱めるだけで、一般的なものに比べて緩和するものではない。一刻も早く収めたい一心でキキは注射型の抑制剤を取り出した。これは発情期を無効化する、キキにとっての劇薬だった。 (初めて使うけど) 何かあったときのため、と常に一本だけ持ち歩いていた。使う際の講習もうけたが、うまく思い出せなかった。容器の側面に描いてある使用方法のイラストだけを見て、キキは思いっきり太ももに針を突き刺した。 「っっ、…!」 痛みは衝撃に比べて針が太くないのでなかった。薬が入ってくる感覚がして、少しすると息が落ち着いてくる。興奮もどんどん冷めてきて、正常になっていく気がした。

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