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 大切な笑顔がすぐ隣にいた。物心つく頃には隣にいて、ああ、今世では隣に居れるのか、と安心したのを覚えている。  壮との関係は覚えている限り、小学生からだ。 「伊織くん、カレー作ったけど食べて帰る?」  シンプルなエプロンをした壮の母親がそう聞いてくる。家に来た時からカレーの匂いが辺りを包んでいて、今日はその日かな?なんて思っていた。 「えぇ!いいの?食べて帰る!!」  じゃあ電話でご両親に伝えなきゃね、なんて壮の部屋を出て行く母親に、ありがとうございます!と声をかける。  折り畳みテーブルの対面には壮が座っていて同じドリルを開いていた。ミミズの這ったような字の伊織と、小学生一年生にしてはすこしだけ綺麗な字の壮のドリルは同じはずなのに、違うドリルのようだった。 「そうちゃんは字綺麗だね」 「お母さんに最低限字だけは上手くなってなさいって教えられたから」  文字ひとつ書く時も丁寧にゆっくりと書いている。真剣なその姿に、ずっと昔の風景が頭を過ぎる。あまり外に出歩けなかった遠い過去の話だ。あの時は諦めに似た表情で本を読んでいたイヴァン。でもいまは母親の教えではあるが、自身の意思で勉強している。真剣な横顔もあの頃にはあまり見れなかった顔だ。 「でも伊織は運動神経がいいから僕は伊織が羨ましいよ」  返事を返さないからか、壮はそう話した。鉛筆を置いて、はあと一息つく。 「この前こけた膝も痛いし、早く走ろうと思うと足がもつれるんだよね」  テーブルの下に組んであった膝をさすりながらそういう。ついこの間体育の授業でこけた時の擦り傷の事だろう、痛々しいその時の傷を思い出して、眉を顰めてしまう。 「じゃあオレはそうちゃんに運動を教える!だからそうちゃんはこれからオレに勉強を教えてくれる?」    いい案じゃない?と続けると、壮は笑った。 「運動を教えるってどういうこと」  ふふふ、と行儀良く笑う壮。 「そのままの意味だよ。これから勉強も頑張るけど、オレと外で遊ぶのも頑張るってこと」  鉛筆を動かして、ドリルを進める。 「とりあえずこれ終わらせて、公園いこ!オレが鉄棒教えてあげる」  伊織の言葉に壮はわかった、とクスクス笑いながら鉛筆を進める。綺麗な文字を書くスピードがすこしだけはやくなっていた。  もう限界、と言った壮は砂塗れになっていた。鉄棒に始まり、なわとびやボールの投げ方、よく言えば教えてる、普通に言えば遊んでいた。 「僕こんなに服汚したの初めてだけど、怒られないかなぁ」  トボトボと歩きながら壮は身体についた砂を払っている。血が出るような怪我はないものの、全力で遊びまわったからか服には砂がつき、髪の毛も汗でのっぺりとまとわりついている。  壮の言葉に、壮の母親を思い返すが、たとえ壮が全身泥まみれで帰ってもたくさん遊んだのね、と笑うだろうと想像できる。でも初めてのことで少しだけ不安になっている壮。 「大丈夫!怒られる時は一緒だよ」  怒られるはずないじゃん、とは言わず、一緒に怒られよう、と続ける。少しだけ安心したように笑う壮。 「カレー楽しみだなあ!」  壮の家は月に一回カレーがでる。残れば翌日もカレー。そのカレーの日だけ壮の家でご飯を食べる。  カレーの日だけ、と自分に約束したのは、際限なく入り浸ってしまいそうな自分がいるからだった。  昔は叶えられなかった事が、この世では叶うかもしれない。そう思うと、欲は尽きる事なく湧いてくる。  でも、急ぐ必要はないだろう。ゆっくり少しずつ、前世の自分ではなれなかった関係になれれば、と思っていた。

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