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(大分……ネガティブになってるな)  貴司が部屋を去ってから、彼の物には触れないように過ごしていた歩樹だが、わき起こった懐かしさにスケッチブックのページを開く。見えたのは、幾重に塗られた淡い青。 「綺麗だな」  スルリと気持ちが言葉になった。目を細めると描く貴司の後ろ姿が見える気がして。 (きっと、前を見ようとしてたんだ)  当時は気づかなかった想いが伝わったような気がしてきて、自分も前を向かなければと少しだけ思えてきた。 (俺も、ちゃんとしないとな) 「ただいま。荷物片付いた?」 「っ!」  突然、耳の後ろから掛けられた声に歩樹の肩がビクリと跳ねる。 「ゴメン、驚かせた? ちょっと休んでお茶にしようって佑樹が言ってるんだけど」 「あ、ああ。分かった、すぐに行く」  深く考え込んでいたせいか全く気配に気づけなかった。近すぎる距離に振り向くことも出来ないまま、何とか返事はしたものの楓が離れる気配はない。 「これ、なに? 兄さん絵なんか描いてたっけ」 「これは友人が忘れてっただけで、俺が描いた物じゃない」  理由はよく解らないが〝見られたくない〟と思った歩樹が、自然な動きを意識しながらスケッチブックを閉じようとすると、背後から伸びた楓の手に両手首を掴まれた。 「それ、そんなに大切なんだ」 「別にそういう訳じゃない」  心の中を見透かされたと直感的に悟った歩樹の鼓動は自然と速くなるけれど、平静を装い普通に話す。 「預かり物だから、しまっておこうと思っただけだ」  だから離せと歩樹が告げても楓は手を離さない。もし、こんなに密着している姿を佑樹達に見られでもしたら。 「楓、離せ」  再度言うけれど返事はない。仕方がないから振り払おうと腕を動かしたその刹那、耳朶に歯を立てられたから歩樹は思わず息を飲んだ。 「っ!」 「嘘つき」  低い声が鼓膜を揺らす。噛みつかれるかと身構えたけれど、ペロリと耳を一舐めしただけで唇は離れていった。 「嘘なんかついてない。言い掛かりもいい加減にしろ」  多少声を荒げた歩樹はスケッチブックをしまい直し、楓の方を振り返る。膝立ちになっている楓の、視線を受け止め睨み返せば、無表情だった彼が唇の片端を器用に上げた。

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