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「ほら、立てよ」
「っ!」
苛立ったような舌打ちのあと、脇下へと手が差し込まれ、そのまま身体を引き寄せられて胸の中へと抱き締められた。
「久しぶりだから外が怖いとか? 兄さん、子供みたい」
「違う、そんなんじゃない」
「外に出てもいいよ。ただし戻って来るなら……ね。でなきゃ仕事もできないだろ」
茶化すような言葉の後に耳へと響いた低い声。
その意味を理解できた歩樹は、ゆっくりと頷いた。
長い時間を彼の支配下で強制的に過ごしたために、逆らえなくなってしまった自分の心の危うさが……今の歩樹には分からない。
『出て行ってはいけない』という理由で折檻された身体は、心と共に強い暗示を掛けられてしまっていた。
「車は俺が出すよ」
さりげなく歩樹の手首を握った楓が玄関を開け、引かれるがままに踏み出した外は穏やかな陽に満ちていて。
「暖かいな」
通路の窓から入る光に目を細めて呟くと、
「もう桜が咲いてるよ」と、返した楓が手を離した。
人は見当たらないけれど、誰にも見られたくなかったのだろう。そんな風に思うだけで、また胸が少し痛くなる。
エレベーターで下へと降り、駐車場へと移動しながら見上げた空は晴れていて――その青さが今は重くて、歩樹はすぐに視線を落とすと助手席へと乗り込んだ。
***
「楓、ちょっと話があるから来てくれ」
「はい」
理事会での挨拶が終わり、配属される職場へも顔を出しておこうと思った矢先、父親から声を掛けられ楓はすぐに踵 を返した。
歩樹の方をチラリと見ると、理事の一人に捕まっている。
「院長、兄さんは?」
「大丈夫だ。楓に話がある……すぐに済むから」
「分かりました」
自分にだけ話があるなら、それはきっと経営に関する内容なのだろうと思い、楓は父親の後に続いて院長室へと足を運んだ。
歩樹には声を掛けなかったが、すぐ終わるのなら平気だろう。
「掛けてくれ」
「はい」
備え付けてあるソファーを示されそこへ軽く腰を下ろすと、前に座った父がこちらを真っ直ぐに見据え口を開いた。
「歩樹と暮らしてるんだって?」
「え? あ、はい。そうです」
仕事の話と思っていたから、プライベートな話を振られて返事の歯切れが悪くなる。
「仲良くやってるのか?」
「はい。それなりにやってます」
唇を笑みの形にすると、今度ははっきりとした口調で楓は彼の問いに答えた。父親が、生活について尋ねるなんて珍しいこともあったものだ。
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