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だけど今は、恩を売るために迷うそぶりを敢えて見せた。きっと、いつか話すと言ってはいるが、彼はこの先も歩樹や佑樹に真実を告げはしないだろう。
「他には? なにも無ければ私はこれで失礼しますが」
「悪いが本題はこれからなんだ。この契約についてなんだが」
「はい」
すぐに済むと言うから歩樹に何も告げずについて来たのに、まだ本題じゃなかったのかと楓は舌打ちしたくなるが、グッとこらえて書類を見た。
もう子供じゃ無いのだから、歩樹も適当に待っているだろう。気持ちを切り替えた楓は仕事の話に集中し、結局……院長室を出た時には、二時間が経過してしまっていた。
***
「打ち合わせ……か」
内科外来は診察中で挨拶ができなかったから、病棟へと顔を出し、出勤していた看護師長と部長とに挨拶を済ませ戻ると、楓は父と打ち合わせ中で、終了時間はわらないと通りかかった事務長に言われた。
(待った方がいいのだろうか)
一緒にここへと来たのだから、なんとなくそうしなければならないような気持ちになるが、軽く首を横に振ってエレベーターへ足を向ける。
いずれ終わって自分が居なければ携帯に電話してくるだろう。
一瞬、佑樹の部屋で待っていようかという考えが過ぎったが、止めておく事にした。
(歩いて帰ろう)
思えば大した距離ではない。ゆっくり行っても二十分ほどでマンションへと辿り着ける。
久しぶりの外出で、頭も体も少し疲れてしまったから、先に帰宅して僅かな時でも一人でゆっくりしたかった。
(早く……早く社会に戻りたい)
あと二日間堪えさえすれば、日常が待っている。楓と一緒に暮らしている以上、普通だなんて言えないけれど、仕事が始まりさえすれば、精神的な均衡はかなり保ちやすくなるだろう。
(そうしたらもっと冷静に……)
考えられるようになる筈だ。不毛な行為に歯止めをかけねばいつか二人とも崩壊する。
『好き』と言うように彼が強要をしてきたのはあの一度きりだが、あれから何度か抱かれるうち、言ってはいけないその言葉が、頭の中をぐるぐると巡り、口を突いて出そうになるのを我慢するのに苦心した。
知られているのは分かっているが、認めてしまえば更に全てがおかしくなってしまうだろう。
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