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 *** 「織間先生」  仕事が終わり、廊下を歩いていたところで、背後から声を掛けられた。 「はい」  足を止めてから振り返ると、同じ病棟の看護師が歩み寄ってくる。 「これから深夜と準夜以外の何人かで、暑気払いに行こうって話になったんですけど……良かったら先生もどうですか?」 「暑気払いか、いいね。でもちょっと今日は用事があるから、残念だけど」  笑みを浮かべて答えながら、財布を取り出し札をそこから数枚抜く。 「これ使って。楽しむのはいいけど、羽目を外し過ぎないようにな」 「え? いや、俺達そんなつもりじゃ……」  渡そうとして差し出すけれど、鳥羽という名の看護師はそれを受け取らず、僅かな逡巡を見せた後で意を決したように口を開いた。 「あのっ、みんな本当に織間先生と飲みたいって思ってます。今日は突然でしたけど、今度は前もって言うんで……嫌じゃなかったら来てください。俺、男一人で肩身が狭くて」 「そういうことか。分かった。次は参加するよ」  経営者の息子である自分がそんな席に行けば、きっと気を遣わせる。  そう思って今までどんな誘いを受けても断ってきたが、そんな歩樹の心情を(おもんばか)ってくれた彼を無下にも出来ずにそう答えると、嬉しそうな笑みを浮かべてこちらを真っ直ぐ見上げてきた。 「ありがとうございます、次は必ずですよ。じゃあ、これはその時出してください」  札を持っていた手を掴まれて、戻すようにと少し押され、歩樹は苦笑を浮かべながらもそれを財布の中へとしまう。 「分かった。約束する」 「絶対ですからね」  念を押すように言われた歩樹は、快活な彼の勢いに半ば押されるように頷いたけど、もし立場が違っていても、飲み会には行けやしないと心の中で謝罪した。  今日は日勤で明日は休み。  たまたま楓も一緒の休みで、そんな時、大抵楓は歩樹を家から出しはしない。  勤務形態は違っているがシフトは彼に知られているし、理由も告げずに遅く帰ればきっと酷く怒るだろう。飲み会だと言ってみても、断るようにと一蹴される可能性の方が高い。 (慣れは怖いな)  絶対無理だと思っていたのに、かれこれもう三ヶ月以上楓と二人で暮らしている。  お互い仕事を始めてからは、それほど無茶はされなくなったが、それは一重に彼に逆らわず言いなりになっているからだ。

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