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「どうかした?」
「いや、なんでもない」
「そんなに怖がるなよ。なにもしないから」
溜息交じりの楓の言葉に歩樹はコクリと頷いた。本当は怖い訳ではないが、優しいとも取れる言動に身体が勝手に構えてしまう。
「飯、もう十時だけど、腹減ったならなにか食う?」
「いや、いい。楓は?」
「俺? 俺は兄さんが寝てる間に少し食ったから」
「そうか。水が飲みたいから、離してくれないか?」
先刻までの状況から、今、普通に会話をしていることに違和感を覚えるが、騒いだところで仕方がないし、もう腹は括っていた。
「いいけど、立てる?」
「平気だ」
力でこそ敵わないけれどそんなにやわな身体ではない。楓の腕が離されたから、ベッドから降り立ち上がると、足は多少ふらつくものの、歩けない程ではなかった。
「お前も、なにか飲むか?」
告げながら、楓の方をチラリと見遣れば、表情は良く分からないけれど、怒りの色は浮かんでいないから内心少し安堵する。
「いいよ、俺も行くから」
「え?」
思わぬ返事に声が出てしまい、そんな反応を楓が笑うから、恥ずかしいような気持ちになった。
「今、だったらお前が取ってこいって思っただろ」
「そこまでは思ってない」
唯、一人行けば良いんじゃないかと純粋に思っただけだ。
「一人にしたら逃げるだろ。だからってずっと閉じ込めとく訳にもいかないし」
「逃げたりしない」
楓の放った物騒な言葉が棘のように胸へと刺さる。
「さっきまで、逃げようとしてた癖に」
呆れたように言い返されて顔に熱が集まった 。確かに、行動を省みれば、違うと言うにはあまりに説得力が無い。
「すまなかった」
自分の心の弱さのせいで疑念を大きくしたことに、自然と謝罪が零れ出た。身体が疲れ切っているせいで、感情が上手く制御出来なくなってしまっているのかもしれない。
「俺が取ってくるから、寝てろ」
「え?」
ふいに胸の辺りをトンと押され、身構えることも出来ないまま、歩樹はベッドに沈み込む。
「身体、辛いだろ? どうぜ休めって言ったって、明日は仕事に行くんだろうし」
サイドテーブルに置かれたライトは光量を最小に落としてあり、楓の顔をはっきり見るには明るさが少しだけ足りない。
だけど、もしかしたら……彼は今、微笑んでいるのではないだろうか?
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