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「……楓」
根拠なんて無いけれど、そう思った歩樹は無意識に彼の名前を呼んでいた。
「なに? 兄さん」
答える声は素っ気ない。それに返せる言葉もない。ただ、顔が見たかっただけなのだと、そんなこと言えるわけもない。
「いや、なんでもない。ありがとう」
だから自分が微笑んだ。作りものの笑みではなく、だけど今の状況では心の底から笑えないから、失敗して困ったような顔になっているだろう。
そうしてみて、今まで作ってばかりいたから、素の感情を表すことが下手くそなのだと自覚した。
「……変な顔」
ライトの灯りが近くにあるから、きっと良く見えているのだろう。喉を鳴らして笑う声に「そうだろうな」と返事をすれば、ベッドの上へと乗り上げた楓が顔を覗き込んでくる。
「初めて見た。なんでそんな顔してんの?」
「え? かえ……んっ」
どんな顔だと尋ねる前に、軽く唇にキスをされた。そのまま顎、頬、額へと、次々にキスを落とされて、それが余りに優しいから、歩樹はおかしな気持ちになる。
(こんなの、まるで……)
「どうせ、もう破綻してる」
唇が離れた刹那、独白のように紡がれた言葉に、身体が小刻みに震えはじめた。優しいと感じたのは都合のよい錯覚で、また楓を怒らせたのだと歩樹が目を瞑ったその時。
「兄さん……愛してる」
歩樹の耳へと入り込んできた彼のありえない一言に……一瞬自身の耳を疑い、歩樹は瞳を見開いた。
***
「俺……飲み物、取ってくる」
状況がうまく理解できない。否、理解することに心が怯え、歩樹は何も言えなくなった。
本気なのか?
自分の気持ちを知った上でのこれは何かの罠なのか?
彼の声音や態度から、後者ではないと考えたいが、ならば前者かと問われれば、それも違うと言わざるをえない。
(頭の中、ごちゃごちゃだ)
今、何事も無かったように楓は部屋を出て行った。歩樹はなんとか頷いたけど、相当動揺していることは伝わってしまっただろう。
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