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『だけど、それも……』
歩樹が生まれた時にはまだ医師の卵だった彼も、母が佑樹を身籠る頃には国家試験を無事通過して、近くの病院で働いていた。
歩樹と新たに宿った命、そして彼との四人で暮らしていけるのなら、離婚して、親権を争ってでも、やり直そうと強く決意したのだと言う。
『離婚したいってあの人に言ったの。楓の事、知ってるって、応じなかったら全て話すって、そうしたら……』
『そんなつまらない噂を誰が信じる? 散々好き勝手しておいて、今更馬鹿なことを言うんじゃない。まあ、応じてやってもいいが……親権は私が貰う』
傲慢にそう言い放った一樹に対し、尚も母は食い下がった。
病院なら、実子の楓が継げばいいと。歩樹が籍を抜きさえすれば、それは自然なことだろうと。
『あの人の考えが……全然分からなかった』
『それが芳香 の遺志だ』
芳香とは叔母の名だ。その言葉を聞いた時、初めて彼女の死を悟り、同時にこれ以上の会話は無駄だと悟ったのだと言う。相容れない、どこまで行っても交わらない二本の線。
だからもう、なにも言わずに出て行こうと心に決めた。
『だけど、そう上手くは行かなかった』
既に産み月に入っていたから、母は急いで準備を進めた。
できる限り慎重に、織間の人間に知られないように。
だけど、あと数日で自由になれると希望を抱いたその矢先、事故で相手が死亡した。
『本当に事故かどうか分からない。少なくとも、私は違うと思ってる』
おそらく、そのタイミングで事故が起これば、誰でもそう考えるだろう。
僅かな希望を失った母は佑樹を出産してからすぐに酒へと溺れ、家にはほとんど戻ること無く、あてがわれたマンションで、ただれた生活を送っていた。
だけど、いくら飲んで忘れようとしても気持ちの整理が全くつかず、一樹への憎しみばかりがどんどん積み重っていき、結果一番弱いところへと恨みをぶつける事となる。
楓さえ居なければ……と、思い込んでの行動は、例えどんな事情があっても許される類のものでは無い。
出生の秘密を告げ、それを歩樹に言わない代わりにセックスを強要し、自分勝手な憎しみを晴らす道具のように扱った。
悪い事だと思っていても、どうしても止められなかった。
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