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第10話

 あれから5年経った。  ヨイチとメイは相変わらずのケンカップル。  ケンカをすると、メイは子どもを引きつれてコータの家にやってくる。散々好き勝手をして気が済んだ頃に、ヨイチがケーキを片手に迎えに来て仲直りする。  そんな二人は、3人の子宝に恵まれ、さらにお腹の中には新たな命が宿っている。  コータの仕事は順調で、大学の有望な研究成果を基にベンチャー企業を設立しては、上場もしくは大企業に売却と、ベンチャーキャピタルのようなことをしている。  今日は、コータは大学に来ていた。学生向けの特別講義の講師を頼まれたからだ。  全3回と短いものだが、準備はなかなか大変で、ここ数日は徹夜だった。  実務にもとづいたコータの講義は非常に好評で、昨年受講した生徒も今回の受講者の中に大勢いる。  ――明けない夜はない。  何度も、口にした言葉。  今も、ジクジクと奥底の見えないところで、傷口は疼き、血は滲んでいる。  忙しい日々に助けられ、表面上はなんとかやっている。  傷口にカサブタができるのは、まだ先になりそうだ。心を凍らせることで痛みをやり過ごすことを学んだ。  ユウリの姿は、テレビや雑誌でよく目にした。  ヤクマはユウリを片時も離さず、その執着振りは「理想の番」や「おしどり番」と評判になった。  毎日のようにマスコミを賑わした。それも、最近は落ち着いてきた。年に1、2回、雑誌で特集を組まれる程度。  そんなユウリの姿を見ると、以前は、胃がキリキリとして心臓が押しつぶされ、発狂しそうになった。  今は、感情をシャットアウトすることで、ギリギリのところで踏みとどまれている。  あの当時、コータはボロボロだった。  何度も、ヤクマを殺してユウリと番を解消させようと試みた。  ユウリを奪い去る計画も、数え切れないほど立てた。  ユウリが手に入らないのなら死んでしまおうと、自殺を図ったこともある。  そのたびに、ヨイチとメイに助けられた。  ――明けない夜はない。  凍らせた心は、痛覚を麻痺させ、その他の感情も取り去った。  悲しみも怒りも苦しみもないが、喜びも楽しみもない。  無味乾燥な世界。  一生、誰も愛さない。  それで構わないとコータは考えていた。 「ここで、死の谷を超えるには……」  講義の最中に、コータの言葉は止まった。  突然、激しい動悸と息苦しさを覚える。  体がおかしい。  さっきまで、何ともなかった。いつも通りだった。    コータは、堪え切れずその場に膝をついた。    講義室が騒めく。  前の席の生徒が駆け寄ってきた。 「先生、大丈夫ですか」 「大丈夫。落ち着いた。ありがとう。講義を続けます」  コータは、フラフラと立ち上がると気力を振り絞って講義を続けた。  休講にはできない。コータの講義のためだけにわざわざ学校に来ている人もいる。  体調は、落ち着くどころか、時間とともに酷くなった。  講義が終わるころには、冷汗で全身がぐっしょりと濡れていた。 「先生、質問、よろしいでしょうか?」  覚えのある香りが鼻腔をくすぐる。電流が背筋を走り抜ける。  動悸はますます激しくなり、周りが耳に入らなくなる。  そんなはずはない。  あり得ない。  必死に打ち消す。  ガクガクと指先が震える。 「ゆ、ユウリ……」  肩まで伸びた黒髪は艶やかに光り、怜悧な美貌は益々冴え渡っている。  消えてしまいそうなほど儚げなのに、この世のものとも思えない壮絶な色気。  視線をそらし、少し困ったようなはにかんだ笑みを浮かべている姿は、今すぐ抱き締めたいほど愛おしい。  何度も見た。  こんな風に、笑いかけられる夢。  伸ばした指がその体に触れる瞬間に必ず目覚める。  目覚めたくない。  もう少し、ユウリと一緒にいたい。  触れてはダメだ。目覚めてしまう……わかっているのに確かめずにはいられない。  コータは震える指を恐る恐る伸ばした。  まだ、夢は覚めない。  さらに伸ばす。  あと、1センチ。  まだ、夢は覚めない。  あと、もう少しで触れることができる。  そう思った瞬間、二人の間に人影が割り込んだ。 「リーシー様。授業が終わったのなら、帰りましょう。長居は無用です。ヤクマ様に授業が終わり次第、送り届けるようにきつく申しつけられています」 「すぐに終わるから廊下で待っていて。先生に質問があるから」  全身黒づくめのヤクザのような男は、胡乱気な目線をコータに向けたが、それ以上は何も言わず、無言で講義室を出て行った。  ユウリは男を意識してか、テキストに目を落としながら、小さな声で囁くように言った。 「やっと学校に通う許可がでた。といっても通学は危険だということで通信。でも頼み込んで三回だけ、スクーリングが認められた。その三回は、コータの講義を選んだ」  廊下から男がこちらを睨みつけている。  ボディーガードというより、まるでユウリの監視役だ。  ユウリの首に巻かれた防護首輪に怒りが湧き上がる。 「ユウリ、このまま、逃げよう」  コータも、テキストから目を離さずにいう。  夢にまでみたユウリが手を伸ばせば届く距離にいる。  現実のユウリ。本物だ。  心臓が止まりそうだった。  今すぐ抱きしめて、確かめたい。  だが、こんなにも二人の距離は近いのに、目を合わすこともふれ合うことも出来ない。    嫌だ。嫌だ。  ユウリは自分のものだ。  本来なら、番として毎日一緒に過ごすのは自分だった。  何年も凍っていたはずの心は一瞬で溶け、苦みとともに壮絶な痛みを連れてくる。  コータは、男を見た。  男は一人だけ。  このままユウリの腕を掴んで、思いっきり走れば、連れ去ることができる。    ゴクリと唾を飲み込む。  コータは一歩前に進み出た。 「……無理。逃げられるはずがない……あと二回コータに会える。それだけで十分。俺には夢のようだ」  ユウリの長い睫毛が震える。 「ユウ……」 「リーシー様、もう、よろしいでしょうか?」  男の声が、コータの言葉を遮った。 「先生、ありがとうございました。また、来週も宜しくお願いします」  ユウリは顔をあげて真っ直ぐにコータの瞳をみた。  ようやく、視線が絡まる。  時間が止まったように、二人は見つめ合った。  愛情を交わしている……コータは思った。  ただ見つめ合うだけの行為が、セックスよりも濃厚な愛情を交わしあう行為へと変化する。 「リーシー様?」  ユウリは弾かれたように荷物を片付けると、振り返ることなく男の元に向かった。  ユウリの出て行った扉から、冷たい風が吹き込んでくる。  コータの伸ばした指は、何も触れることなく、ダラリと垂れ下がった。

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