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「………」  ととと…と黒猫が足元をすり抜けてスツールに飛び乗る。 「驚いたな」  跳ねた心臓を宥めるために、彼は胸に拳を置いた。 「猫に案内された先に貴方がいるなんて」  微かに跳ねた息は、彼が走り回っていたことを告げる。  隣へと腰を下ろして彼の前に置かれたチーズケーキと珈琲に目をやった。 「同じものをいただけますか」 「あ、の…」 「突然逃げられて、いささかショックでした」 「………」  作った拳に触れられ、彼は大げさな程に飛び上がって手を引っ込めてしまう。 「……触れられるのが、嫌ですか」 「ちがっ…そうじゃなくて…」  ちらりとマスターを見た視線に「ああ」と納得したような返事を返され、自分でそう注意を促したはずなのにチリッとした胸の痛みを覚えて口を引き結ぶ。 「私は、貴方に触れたい」 「っ…だから……」 「そんなに周りが気になりますか?」 「……」 「貴方と愛し合っているのは私です」  他の誰でもない。  そう告げて彼の手を握り締める。 「困るじゃないか!…オレは構わない。でもお前まで…」 「奇遇ですね。私も構いません、と言う事はお互い何も気にすることはない」  表情に乏しい顔に笑みが浮かぶ。 「周りと恋愛しているんじゃない」 「だ…」  反論しようとした彼の口を大きな手で塞ぎ、沸いたお湯を注いでいるマスターに向かう。 「この人と恋人なんです」 「なっ何言ってんだ!」 「お似合いですね」 「ありがとうございます」  二人のやり取りは彼を置いてきぼりにしたままのそれで…  彼は慌てて男の腕を掴んだ。 「公表したって、なんてことはないんです」 「……だって…」 「だって?」 「だって…」 「肝心なのは、お互いの好意でしょう?」  黙ったままのマスターが差し出した珈琲を受け取り、男は一口飲んで美味いですと微笑む。

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