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 からりん…と鉛筆を転がし、側面に掘り込んだ数字の中でどれが上を向いているか覗き込んだ所で首の後ろを引っ張られた。 「あだっ!!」 「そんな鉛筆サイコロで答えたって、補習にならないだろ!」  そう言って頬を膨らます日野と二人、科学室にいる。  …津田は逃げた。 「だって…わかんねぇし…」  不貞腐れて言うと、はぁ…と溜息を洩らされた。 「ちゃんとしないと、入学式の日のことバラすぞ!」 「っ!?なんだよ、その脅し文句…」  日野と出会えて感情のままに泣き出したオレを、日野は  迷子になって心細くて泣き出した  と、勘違いしたらしい……  ああ、相変わらずの天然ぷりだ… 「…いいよ…ちゃんとするよ」 「よろしい」  満足そうに笑うけど、実際笑い出したいのはオレの方で…  日野とこうして二人でいられる時間が嬉しくて仕方がなかった。  例えその傍らに寄り添い、その手に触れる事が出来なくとも、こうして同じ空間の中で向かい合えると言う事が幸せでしょうがなかった。  もう二度と出会えないかもしれないと、諦めていた。  世界が、昔のように閉ざされた小さな世界ではなく、途方もなく広いと知ってしまったから。  出会える確率が限りなく低いと、分かってしまったから…  今のオレは、昔のように狭い世界で生きているのではない。  岡田将晴としての生は、『天野祝』として生きていた頃からは考えられない程の知識と、世界の広さをオレに与えた。  世界は丸いと、その周りには宇宙があると、海があると、金の髪、黒い肌の人間がいると教えた。  性の在り方にも、長い歴史の中で変化があった事も。  かつての人々の小さな世界観からしてみれば、今のこの世界はどう映るんだろうか?  岡田将晴としての人生がなければ、オレは『天野祝』の人生を思い出した瞬間に卒倒していたかもしれない。  化学記号なんて、神の言葉に映る筈だ。 「………わっけわかんねぇ」  今も昔も、神の言葉は難解にして人の考えの範疇に収まるものなんかじゃないと言う事を痛感する。  目の前をちかちかと列を作って鎮座するその化学記号に頭を抱えた。 「授業をちゃんと聞いてなかっただろう?」  聞いていても、理解できないものはできないのだ。  そもそも、暗記は苦手だ。 「これは…」  横に座られ、軽く体をこちらに傾げられるだけで、オレはどうしようもなく緊張してしまう。  触れるか?  触れないか?  その距離に近づけたと言う達成感だけで指先が震えてうまく字が書けなくなった。  覗き込まれると、微かな息がこちらにかかる。  他の男の息ならば気持ち悪いと思い身を逸らしもしただろうが、それが日野の物だと思うともっと近くでそれを感じたくなった。  自然と、顔を寄せると、 「ほら、後は自分で考えなさい」  そう言って彼はふっと離れて行き、窓辺に足を運んで校庭へと目を向けた。 「…んだよ、最後まで教えてくれればいいじゃねぇか」  悪態を吐けばまたこちらに戻ってきてくれるかと淡い期待を胸に抱いてはみたが、日野は「自分の力で解かないとだめだよ」と言ってその場から動こうとはしなかった。  先ほど教えてくれていた答えの導き方など、聞いていないオレはやっぱり回答に詰まってしまって…  真剣に問題に取っ組み合うふりをしながらこっそりと日野を盗み見た。  線が細いのは相変わらずで…童顔なのも相変わらずで。  ふと目を離せば日の光に溶けて行ってしまうのではないだろうかと不安にさせる雰囲気もそのままだった。  笑顔の合間の、ふとした寂寥感を滲ませた横顔に思わず見惚れて、こくりと喉を鳴らした。  初夏の青臭い空気を孕んだ風が日野の首筋を行き過ぎるのを感じ取ってジワリとした欲望がせり上がる。 「………っ」  岡田将晴にそちらの趣味はなかったけれど、それでも知っている。  世の中の同性愛について…  今現在、どう言う受け入れられ方をしているか…  そして『天野祝』も知っている。  かつて自身が『小竹祝』を愛しいと感じ、思いつめた結果に起こった出来事を…

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