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「日食」  ぞくりと背筋を駆け上がった悪寒に身震いすると、指の間で弄んでいた鉛筆が零れ落ちてひんやりとした床を転がって行った。  カラカラと足音まで転がった鉛筆を拾い上げながら、日野が苦笑してこちらを向く。 「またやってたのか?」 「ちげーよ…」 「そう」  オレの前に鉛筆を置きながら、また傍らの椅子に腰掛ける。  隣の席の椅子。  この距離は、近いのか…遠いのか… 「もうすぐ日食があるの、知ってる?」 「…ああ、うん」  この話題を避けたくて、オレは曖昧に返事をして鉛筆を握る。 「授業でも取り上げようと思ってるんだ」 「……」  答える事が出来ず、オレはプリントに鉛筆の黒い痕を残していく。 「面白そうだろ?」 「…別に」 「別にって…」 「今まで何回も見たよ。ちっせぇガキじゃあるまいし、そんなにはしゃぐ程の事じゃねぇよ」  消えていく太陽を思い浮かべるだけで体が震え出す。  日食。  あれはオレにとっては罪の象徴でしかない。 「可愛くない事言ってると、日食グラス貸してあげないよ?」 「いらねぇし…」  小さな頃から嫌いだった。  いや、嫌いと言うよりはあれは恐れに近かった。  自覚のない間から『天野祝』の世界観に引きずられていたのか…  日食が、太陽と月の起こすただの天体ショーだと言う事を理解できていても、湧き上がる恐怖は拭えなかった。  遥かな昔、太陽は神だった。  それが姿を消すと言うのは、目に見えないものに依存しながら生きていた当時の人間には、まさに天地が引っくり返るような出来事だった。  さまざまな迷信が、まことしやかに…いや、真として罷り通っていた。  消えて行く光に当たると災いが起こる。  大災害の前触れ。  悪しき鬼の仕業。  そして、罪に対する罰。  そう…  オレがした事への…  いや、正確にはオレがした事によって周りにさせてしまった事に対する… 「顔色、悪いぞ?」 「え?…ああ」 「あ。さっき襟を引っ張りすぎたか?」  その視線に気付いてはっと首元を押さえた。 「これは……以前に交通事故に遭った痕だよ…」 「事故?」  オレの首筋には、記憶が戻ってからできた傷跡がある。  位置は喉元…ちょうど自分で短刀を押し込んだ位置だ。  喉のそれは、自害の痕だ…  じっとりと、額に嫌な汗が滲む。  心配げに覗き込む日野を安心させたくて冗談を返そうとしたが失敗した。 「…その……」  気の利いた言葉一つ言えずに黙り込む。 「その…」  続かない言葉の続きを言おうとしたが、それはカラリと軽い音を立てるドアによって阻まれた。  二人だけの空間に水を差した来訪者の顔を見やると、長い髪をハーフアップにした若い女が開いた扉の隙間から顔をのぞかせる。  若い、女教師。  岡田将晴ならば、嬉々としてその容貌を舐めるように見たのだろうが、生憎と今はそんな気分になれない。  笑顔でドアへと向かう日野の後ろ姿を恨めし気に睨んで唇を噛んだ。

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