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海の街への逃避行
とうとう、夏休みがやって来た。高2の夏休み。楽しくない訳がない。現に桂助と海の家でのバイトが決まっていたし、真咲主催で、キャンプにでも行こーぜ、となっている。まあ女っ気のない俺たちだ。馬鹿な事やり尽くして夏がおわるのだろう。心配な事もひとつ、委員長のこと。夏休みは一ヶ月。大丈夫なのだろうか。メアドを聞いたが携帯を持っていない。という返答。とりあえずケー番だけ紙に書いて渡した。考えだしたらキリがない。
今日は真咲と買い物だ。靴やら服やら、真咲はなんだかんだセンスが良いのでよく、買い物に
付き合わせる。昨日バイト代が入ったばかり。狙ってた財布は買うのをやめた。
待ち合わせまで1時間。暇だったので早く出て来てしまった。
暑い。
7月の日差しがアスファルトから照り返す。歩いている人も皆、ネクタイを緩めたり、日傘をさしたり。
と、
向かってくる人波の中に見知った顔を見つけた。どんどん近づいてくる。思わず腕を掴んでしまった。
「おい、あんた
ちょっといいか?」
嫌悪感丸出しの声が出た。
カラリ、氷が涼しい音をたてた。かき混ぜていたストローから手を離して、そいつは顔を上げた。
「そっか、委員長なんだ、一縷」
本当にそっくりの容姿。センスのいい半袖シャツに足元を折り返した緩めのジーンズ。人気が有るのも頷ける委員長の双子の兄弟、春宮一成だった。最初は委員長は大丈夫なのか、聞き出そうと敵意丸出しで突っかかていったが、僕も話したい、カフェにでも行こうか。なんて言葉が返って来た。拍子抜けして、おとなしくついて来てしまった。
「一縷、虐められたりしてない?」
「あんたがそれを聞くのかよ、あいつの傷、あんたの所為だろ」
思わず叩きつけた言葉。驚いて目を見開いている。本当にそっくりだ。
「そっか、傷のことまで知ってるんだ」
はあ、と溜息をつく。後ろ髪をガシガシ掻く似つかわしくない動作。
「あれは、僕じゃないよ、」
ためらいを含んだ言葉。
「父親か?」
「パパは家にいないよ、パリの会社で働いてるから」
「じゃあ、」
「うん、ママだよ」
辛そうに細められた目。こいつは想像してた奴と違うみたいだ。
「傷みたんなら分かるでしょ、ママは一縷を見るとおかしくなるんだ。いつもは穏やかで優しい母親なのに」
またストローをいじりだした。こいつの癖らしい。それから、ぽつりぽつり、話された家の事。屋根裏部屋で生活していると聞いた時は息が止まりそうだった。
「腹立つな、母親なんだろ」
飯も作らない、金も与えない、与えるのは痛みだけ。
「僕も、酷いよ。見て見ぬふりしか、出来ないから」
助けてやれない。ガラスの外の行き交う人を眺めながら呟く。
「んなの当たり前だろ。人間は一番自分が大事なんだからよ」
しかたねーよ、ずっ、とアイスコーヒーを飲み干した。
「、そうだね」
髪で隠された横顔は泣いてる様にも見えた。こいつも苦しんで居るのかもしれない。だから赤の他人の俺に打ち明けたのだろう。貼り付けたような笑顔は消えていた。
結局、LINEと電話番号を交換して別れた。大きな収穫。そして一成の印象も大きく変わっていた。
その後は真咲の説教が待っていたのだけれど。
夏休みも終盤。海の家のバイトは楽しかった。暇な時には海で泳いだ。最近では日焼けがヒリヒリする。一成からは何回か連絡がきた。委員長は図書館に通ってるという。パリに母親が行っているらしく殴られてもいない。しかしハウスキーパーが逐一報告の電話をかけているらしくうんざりするという。まあ、とりあえず安心だった。だからだろうか、夏を満喫するのに夢中になっていた。
バイトの帰り。桂助の家に寄って騒いでいた。帰宅する為にチャリに乗ったのは12時前、泊まっていけば?と言われたが携帯を家に忘れていたこともあり、帰る事にしたのだ。漕ぎながらバイトの疲れがどっ、と足にくる。明日は一日暇だ。寝て過ごそうと決めた。
アパートについて、階段を上がる。慣れたことだ。四階の三番目の部屋。四階が見えてきてポケットに手をいれて鍵を探る。
と、
「い、委員長!」
目に飛び込んできたのはドアの前に横たわる細身。慌てて抱え起こすぐったり、として意識がなかった。制服を纏った姿シャツがぐっしょり濡れていた。
「委員長、おい!」
とりあえず部屋に抱えて入れる。荷物を投げ出した。ベッドに横たえる。頭がついていかない。濡れたシャツを脱がした。
そこには付けられて直ぐの赤く腫れた傷が多数のあざの上に広がっていた。腕なんて、傷のほんの一部でしか無かったのだ。骨の浮き出た身体。以前必死に抑えていた脇腹は異様にへこんでいた。ぶかぶかのズボン。ベルトで無理に閉められたウエスト。自分の半分ほどしか体重がない気がする。目の当たりにした惨状に目眩がした。手当てをしてもキリがなさそうなので出血している傷だけ血を拭って半袖の服を着せた。寝かせようと頭を支えた時、手のひらに
ぼこり、とした感触があった。大きな、大きな瘤だった。氷袋を枕の上に乗せた。目は閉じられたままだった。
携帯が鳴る。出ると一成だった。
「なにがあったんだ!」
怒鳴ってしまった。今日母親が帰って来たらしい。どうやら父親と喧嘩したらしく、機嫌は最悪。酒を飲んで居た所に委員長が出くわしたという。その時一成は外出していて、ハウスキーパーから聞いた話だと言った。母親は委員長に二度と戻ってくるな、と言って家から締め出したそうだ。だから二、三日預かってほしい。母親の機嫌が治るまで。そう言った。好都合だ、
何日でも面倒みてやる。お前も頑張れ。そう告げて電話を切った。
ごそり、布団が動いた。
「委員長!」
「っ、うあ、」
苦しそうな声。汗をびっしょりかいていた。
「委員長、大丈夫だ、」
頭を撫でる。深く閉じて一気に開けた涙の流れる瞳。
「もう、大丈夫だ
家に居なくて悪かったな」
笑ってやる。安心して欲しかっただけども虚ろな瞳はこちらを見ない。ただ涙を流し続けるだけ。
「委員長、?」
「っ!く、さど?」
手が伸ばされた。身を起こして手探りで探すように。
「お前、目が」
「ふっ、うあ」
ぼろぼろ、と涙を流す委員長を、思い切り抱きしめた。ここにいる、と示したくて。
「大丈夫だ、ここにいるから」
しがみついて泣く。なにも見えない、と繰り返しつぶやく。こっちまで涙が出て来た。大丈夫、を繰り返しても情けない声しかでない。
大丈夫な訳なかった
「花瓶で頭を殴られた」
だいぶ落ち着いて来た委員長に目が見えなくなったのに心当たりは無いか、と聞いた。
あの瘤はこの時できたのだろう。どっちにしろ由々しき自体だった。脳へのダメージだ。病院に行った方がいい。今は夜中の三時だ、明日の朝一で連れて行こう。
「病院行こうな、明日」
「い、いかない」
必死に首を振る。いやだ、いやだ、とわめく。確かに傷をさらけ出すのは辛いだろうが目の方が心配だっただがまた泣き出してしまいそうだ。あ、と気づいた。
「じゃあ、
俺の親父んとこならいいか?」
俺の実家は近くの港から船で30分ぐらいの離島の診療所だ。医者の親父が開いた診療所。家族も島に住んでいる。
「え、」
「親父、医者なんだよ。こっから船で30分ぐらいのちっせえ島の診療所なんだけどよ、」
いくか?、と尋ねる嫌だと言ったら無理にでも近くの総合病院に連れていくつもりだった。
こくん、と頷く。
「じゃあ、明日朝一の船でいくからよ、」
がしがし、と髪を撫でる。どこか一部にでも触れて、隣にいる事を示し続けた。不安にならない様に。
朝の風は気持ちいい。6時には家を出た。チャリの後ろにはぶかぶかの俺の服を来た委員長。
ぎこちなく俺の腰に捕まっている
「昨日さ、よく覚えてたな、俺のアパート」
「無我夢中で歩いていたから自分でもどう来たのか覚えてない」
「そっか、」
自分を頼ってくれたのだ。無意識のうちに、痛みのなか必死に歩いてきてくれた。回された手に触れる。
「俺な、嬉しかったぜ。委員長が俺を頼ってくれて」
「すまない、」
「だからよ、嬉しいって言ってんだろーが」
朝日が綺麗だ。言いけて、やめた。今は何も見えない、真っ暗闇なのだ。
港から出た定期船には誰も乗っていなかった。
ゆっくり手を引いて甲板まで連れてきた。
「風が気持ちいいだろ、」
「そうだな、」
髪が揺れる。ぶかぶかのTシャツに白いパーカーを羽織った姿。風で飛んでいきそうだ。きゅ、と裾を掴まれた。やはり怖いのだろう、何も見えないというのは。
「な〜、一縷って、呼んでい?」
「かまわない」
「俺のことハルって呼べよ、な?」
返事は返って来なかった。
実家の診療所は海のすぐ側に立っている。一階が病院、二、三階が自宅だった。
手を引いて港からの道を歩く。途中、何人かに
話かけられた。あら、はーちゃんお久しぶり。
彼女かい?なんて聞いてきたおばさんもいた。この島の住民は皆、俺のことを知っている。
「はーちゃん、?」
驚いたようにつぶやく一縷。
「うっせ、」
恥ずかしい。
「おい、親父!いねーの?」
診療所のドアを開けた。チリンチリン、とベルが鳴る。今日の朝早く電話で叩き起こした。来ることは伝えてある。そして一縷の事も伝えた。傷の原因も。
「バカ息子、帰ってきたか」
奥から出てきた白衣姿、
「誰が、バカ息子だよ。今患者いねーよな」
「いねーよ、昼までは予約もない」
粗雑な性格はこの親父から受け継いだのだとはっきり自覚できる。見た目は医者じゃなくて漁師だ。
「まあ、入れ。後ろのお友達もな」
手を引いて診察室に誘導する。緊張してるのだろうか、手が震えている。診察台に座らせるが
ここに来て一度も話していない。自分も脇に立った。
「えっと、目が見えなくなったって聞いたんだが、ちょっと目、開けてくれるか?」
開かれた目にライトを当てたり覗きこんだりするその間身体を強張らせていた。次に頭を確認しようと親父が触れた瞬間、ひっ、と息を呑んだ。びくり、とはね、震えだす身体。
「大丈夫だ、一縷。瘤確認するだけだから。親父も何するか言ってから行動しろよ」
完全に怖がらせてしまった。なだめるように
背中をさする。
「ちょっと頭の瘤確認するな」
おせーよ、親父。
そのあとも怯える一縷をなだめながら診察していった。親父は険しい顔をしていた。それが嫌な感じを伝える。失明、最悪な結果が胸をよぎる。黙って親父の言葉を待った。
「大丈夫だ、一時的なものだろ。何日かしたら見えるようになる」
「本当か!」
「嘘言ってどーする」
「よかったな、一縷」
振り返ったら、泣きそうな顔をしていた。安心したのだろう。
「何日か泊まっていけよ。今、入院患者もいねーし」
そう言って親父は診察室を出ていった。
「三日ぐらい泊まってこーぜ、」
「いいのか、?」
「こっちの方が広いし、なんかあった時安心だろ。俺、ひとりっ子だかんよ。親父と母さんしかいねーし、な?」
こくり、と頷いた。
「なあ、一縷」
診察台に座る一縷の前にかがんだ。そして手を握る。
「俺のこと、ちゃんと頼れよ」
「え、」
「目が見えない今ぐらい、いーじゃねーか、
痛いとか辛いとかちゃんと伝えろ、な?」
人を頼る練習。人を信じる練習。知らない沢山の楽しいことを知ってもらいたい。ぎゅ、と力を込めて重ねた両手を握った。
「また迷惑をかけている。すまない、」
「すまない、も禁止」
困った顔をしている。
「まあ、もっと我儘
になれってことよ」
頭を撫でる。びくり、と身体を強張らせる。人に触れられる事にも慣れて欲しい。
「んじゃ、二階上がるか」
この逃避行が一縷にとっての変化のきっかけになってほしい。今までの分全部とは言わない。少しでも辛さや悲しみを吐き出してほしい。全力で支えてやる。
「あー、階段は抱えたほうが早いな」
「は?いやいい」
「大丈夫だよ、抱えるからな」
軽い、本当に軽い。恥ずかしいのかうつむいて手を握りしめている。二階にリビングやキッチン、水まわりがある。三階には俺の部屋と両親の寝室。寝るときどうすっかな、なんて考えてリビングのドアを開けた。
「どうなの、あの子の友達は」
「あー大丈夫だ、目はな」
「目は?」
「どっちかってとありゃ、精神的な問題だ。まあ怪我の原因聞く限りじゃ、当然の結果だな」
「またあの子は」
「あいつの癖みたいなもんだろーな」
リビングのドアを開けると親父が早めの昼食をとっていた。テーブルには親父と母さん。
「おかえり、ハル。お昼食べる?」
「あー、食う。っといま話してんのが母さん」
後ろを振り返ると少し怯えの含まれた顔。しかたがない。こいつにとって母親は痛みしか与えてくれない存在だから。
「よろしくね、ゆっくりしていってね」
母さんが近づいて肩をぽん、と叩いた。その細さや怯えに気づいたのだろうか、泣きそうな顔をしていた。
昼飯は素麺だった。あ、どうやって食べさせようか。と悩んでいたら、いらない、と呟かれた。
「素麺嫌いか?」
「素麺がわからない。それに、腹は減っていない」
「は?素麺食べたことない?」
こくり、と頷かれた。
「でも食わねーと、」
「大丈夫だ、一昨日の夜に弁当を食べた」
一成がハウスキーパーに隠れて買ってきてやったんだろーな。
「それ、大丈夫じゃねーから」
俺たちの会話を驚いたように聞いている母さん。親父は険しい顔。それから食べろ、食べない。の問答が続き、夜ご飯はちゃんと食べることを約束して俺が折れた。俺が食べている間、少し離れたリビングのテレビの前のソファーにくたり、と背を預けていた。
「哀しい子ね、」
ソファーにすわる小さな姿に目を細める母さん。親父は病院に下りていった。
「夜飯、あいつの為になんかお粥みたいなもん
作ってやってくんね?」
「そうね。優くんの時以来ね、この感じ」
その言葉にずきり、胸が痛んだ。
それから夕方になって、海辺に行った。慣れてきたのか一縷は自然に俺の裾を掴んで歩く様になった。ひと気のない海沿い。海鳥が鳴いている。
「海は見たことがない」
ぽつり、何の脈絡もなく発された言葉。
「そっか、」
言葉が寂しくて裾を掴んでいた手を繋いだ。嫌がるかと思ったがすんなりと隣を歩く。ぶらり、ぶらり手を揺らす。夕日が眩しい。
「俺の世界は学校と家だけだった」
「うん、」
「学校では友達なんていなかった。家では、」
言葉を切る。何もいわず手を揺らすしか出来なかった。
「母が消えろ、と言う」
なんの変化もない抑えた声。
「傷は全て母が付けたんだ、花瓶で殴ったのも脇腹を蹴るのも、もう諦めてた」
「ん、」
初めて一縷の口から聞く家のこと。打ち明けてくれたことが嬉しかった。夕日に照らされた顔は穏やかだった。
「あの日、教室でお前が話しかけてきた日、死のうと決めたんだ」
「え、」
思わず足を止めてしまう。腕が引っぱられて一縷も足を止める。
「腹が減って、痛くて、暑くて嫌になった。だからもういい、とセーターを脱いでいた」
歩き出した一縷に合わせる様に追いかける。
「嬉しかった。学校でお前が心配してかけてくれる言葉がそれだけが救いだった。だから、死ぬことが出来なかった」
思わず肩を引き寄せて、抱きしめた。腕の中で言葉を続ける。
「独りで生きていく、そう決めていたのに。どこかでは羨ましかった。笑い合うお前達が」
ぎゅ、と胸元を握りしめる
寂しかった。
その言葉と共に堰を越えたように涙を流した。哀しみや辛さが繋いだ手から伝わり過ぎた。
「死ぬ、なんていうな」
「ふ、うっ」
「お前に死んで欲しくない」
「あ、っ」
ありがとう。
落ちついた一縷を連れて岩場に来ていた。そのひとつに並んで座る。日は沈んで暗闇が広がっていた。辛い記憶が蘇る。
「よし、一縷も話してくれたことだしな、俺も話すか」
「え?」
「ここでな、二年前、友達が自殺したんだ」
「てめーら、何してんだ!」
この性格にこのガタイ。中学の俺は、この島の番長的存在になっていた。ある、うだるような暑さの日。神社の境内から悲鳴が聞こえた。そこにいたのは同じ制服。一人を囲んで蹴り付けている。いつも自分を慕って付きまとってくる奴ら。俺も喧嘩はたまにするが、こういういじめみたいなもんは大っ嫌いだ。
「なに三人で一人を囲むようなまねしてんだよ」
学生鞄を地面に叩きつけた。この暑さのせいか更に苛立ちは増す。
「すいません!」
ばたばた、と逃げて行く奴ら。残ったのは小柄な男の子。名前を優と言った。一個下の中2だった。
「ありがとーな!」
起き上がって制服の埃を払う。満面の笑顔。半袖の夏服から覗く腕は傷だらけだった。
それからちょくちょく俺の家に泊まるようになった。自宅から逃げてくるのだ。父さんから虐待されている、笑顔でそう言った。平気だ、ハル兄がいるから。いつもそう繰り返して、絶対に泣かなかった。会うときはいつも笑顔。にこにこしながら助けて、と駆け込んでくる。あまり食事をとろうとしない優に母さんはよくお粥を作っていた。人懐っこい優を母さんも気に入って息子にしたい、なんて言っていた。
その年の冬、俺の高校が決まった三日後だった。優には真っ先に伝えて、来年お前も来い!なんて言うつもりだった。だけど、いつも来る時間にドアの鈴は鳴らなかった。それが三日続いた。学校にも来てないらしい。心配になって家を尋ねると酔ったおじさんが出て行った、と告げた。ぐちゃぐちゃの家の中。嫌な予感しかしない。あてを探していた時に、携帯が鳴った。母から、海で優の死体が上がった、という電話だった。
自殺だった。靴のなかに、携帯が入れてあり、新規作成のメール画面に
はる兄
今までありがとう
それだけ打ち込んであった。自分でもわからなくなるくらい泣いた。優の親父に何をしたのか、と問い詰めた。
ただ、死ね、と言っただけだ。そうしたら分かった、と出て行った。
と平気な顔で言った時は、本気で殴った。あざや傷だらけの優の死体の前で、優の痛みの仕返しの様に俺の親父が慌てて止めるまで殴り続けた。
辛い記憶。だから、一縷の腕を見たとき、優と重なったのだ。
海風が二人を揺らす。
「すまない、」
声が震えた。
「死ぬなど言ってすまなかった」
聞いた話が、哀しすぎた。こいつは自分と優という子を重ねていたのかもしれない。だから、あんなに心配してくれたのだ。
「優はさ、なんも言わなかった。ただ笑うだけで、痛いとか辛いとか、一人でため込んでたんだろーな」
闇に消えるように発された言葉。
「だからさ、一縷がなんも言わねーと不安になんだよ」
ぐしゃぐしゃ、と髪を掻き回された。
「わかった」
決めた、全部伝えようと。それで不安が消えるのなら痛みも辛さも伝えよう。
帰り道も手を揺らしながら歩いた。暗闇にも慣れてきた。それよりも横の存在の安心感のほうが恐怖よりも大きかった。
「死なない」
「ん?」
「死にたくない」
行く時と逆の事を言っていた。歌うように口が動いた。もうこれ以上こいつを悲しませたくない。だから、生きていく約束を。
ありがとう。
「熱くないか?」
「美味しい」
家に帰ると夕飯が出来上がっていた。食卓のテーブルに並んで座る。俺は自分の食事は後回しに、一縷の口にお粥を運んでいた。最後の一口まで拒むことなく、食べ終えた。温かいものを久しぶりに食べた。そう言った。
それから一階の入院患者用の広い風呂に抵抗する一縷を色々言いくるめて二人で入った。改めて見た一縷の身体は目を背けたくなるほど細く、傷だらけだった。シャワーが沁みるのではないかと心配したら慣れたと返ってきた。
湯船に入ることは酷く拒んだ。どうやら湯船につかったことがないらしい。あがってドライヤーをかけてやると、ドライヤーも初めてだと言う。
「初めてだらけだな」
「なんでも揃っている所なんだな」
思わず言いそうになった、お前ん家にもあるって。その言葉を飲み込んだ。
結局俺の部屋で眠る事にした。もちろんベッドはひとつ。だからベッドの下に布団を引いた。
ベッドに一縷を寝かせて自分は布団に潜る。
眠い。今朝は早かったし沢山の事があり過ぎた一日だった。うとうとしてくる。ごそり、ベッドの毛布がうごく。
「もう、寝たか?」
「ん、どーした?」
「いや、」
ためらいの声。
「どうしたんだよ」
布団から出て、髪を撫でてやる。
「…怖い」
お前が何処かに行ってしまいそうで怖い。はっきりと伝えてくれた。
「狭くなるかもな」
ベッドに潜りこむ。狭いから自然に俺が一縷を抱き込む形になってしまう。冷房もきいてるし暑くはないが、少し気まずい。そう考えている間に下で寝息が聞こえてきた。安心した無防備な寝顔。自分が信用されていることが伝わる。髪をもう一度優しく撫でて自分も眠りについた。
ん、目が覚めると心地よい温もり。
見上げると少し幼く感じる寝顔。
朝日がカーテンから差し込んでいるのかうっすらと明るい。と、そこで気づいた。視力が戻っていることに。
起き上がると、見慣れない部屋
「、ハル」
肩をゆっくり揺すった。起こすのは申し訳ないが真っ先に伝えたい。
「んー、ん?」
ぱちり、目が合う
「ハル!」
「どうした、一縷…?」
眠そうな顔で笑いかけてくれる。
「視力が、戻った」
見開かれる目。よかったな!と飛び起きたハル。ぐしゃぐしゃ髪を撫でる。ハルはこの行為が好きらしい。
「つーかさ、ハルって」
「お前が呼べ、と」
恥ずかしい。そういう風にうつむくと、掠れた笑い声が降ってきた。
「んー、起きるか」
時計は9時を指していた。
ハルの母親は活発そうな綺麗な人だった。
目が治った、と伝えるとよかったね、と本当に
安心したように笑ってくれた。朝食のパンは甘くて温かくて美味しかった。フレンチトーストとハルが教えてくれた。甘過ぎて嫌いだということも。
「そういえば、ハル。あんた、とうま君が来てたわよ。帰って来たんなら、顔だせって怒ってた」
「あー、どうすっか」
幼馴染の顔が浮かぶ。色々近況報告もいいかもしれない。
「俺は大丈夫だ。迷惑にならないのなら、ここにいる」
「ごめんな、ちょっくら行って来るわ」
なんかあったら、母さんが居るしすぐ戻ってくる。そう告げて出て行ったハル。
リビングでテレビでも見てたらいい。そうハルの母親に勧められてテレビの前のフローリングに座った。ソファーには座る気が引けた。テレビなんてほとんど見たことがない。
開け放された、ベランダに続く大窓。日差しが心地よい床からも温もりが、伝わってくる。海の香りを乗せた風。ベランダの先には海が見える。大きな蒼くて広大な海。きらきら、と光って見えた。綺麗すぎて、心が洗われる様な感覚。頬を流れる涙に気づかないほど、海に惹かれていた。
雑誌をめくる手を止めた。読んでいた女性誌。綺麗な服を着て、上品に微笑むモデル。涼しげな目元とすらっ、とした顔立ちが似ていた。
名前を確認すると
春宮。
ビンゴかもしれない。声をかけようと、視線を上げると、陽だまりの中で涙を流す姿。真っ直ぐな瞳は外に向けられていた。ぶかぶかのハルのTシャツから伸びた腕には痛々しい傷。虐待にあっているとしか聞いていない。もしかしたらこの誌面で微笑むこの人が付けた傷なのかも
しれない。もう一度、雑誌に目を向けると、声をかけるのをやめた。時計は10時半を指していた。そろそろ昼食の準備をしなくてはならない。コーヒーを飲み干して台所に向かった。
とん、とん、
規則正しい音が聞こえる。台所から聞こえる音はどこか懐かしかった。何か手伝ったほうがいいのだろうか。立ち上がって足を進めた。
と、
キッチンテーブルに開かれたままの雑誌。目に飛び込んできた綺麗な笑顔。
「、っ!」
手がページをめくっていた。夏物着回しと題されたページで優しい笑顔を広げるのは自分を痛めつけるあの顔で。鬼の様な形相で暴言を吐く姿となかなか重ならない。向けられた事もないふんわりとした優しい笑顔。モデル紹介のページで見つけた、双子の高校生の母。そんな一文。何度も指でなぞった。自分が息子の一人にカウントされていることが驚きだった。そこに書かれていた母のプロフィールを何度も読み返した。誕生日や好きなもの。母が自分の事を知ろうとしてくれないのと同時に自分も母の事を何も知らなかった。毎日、会いたく無くてたまらなかった母の顔。何故か目が離せなかった
「一縷、」
頭上から声がした。見上げると神妙な顔のハル。帰って来ていたらしい。
「母だ、」
「ああ、似てる」
困惑した声。
「不思議と嫌ではない、初めて見た。母の笑顔というものを」
「うん、」
「いつか、分かり合えたら、笑いかけてくれるんだろうか」
「大丈夫だ、母親なんだろ?」
「、そうだな」
涙は出てこない。ハルと出会って少しずつ前に進めていると実感した。
「ハル、父さん呼んで来て」
いつの間にか後ろに立っていたハルの母親。
「あげましょうか?その雑誌」
「、はい」
ありがとうございます。そう言うと、穏やかにほほ笑まれた。
誌面でほほ笑む母は、確かに母親の顔だった。
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