4 / 5

振り子の様な愛

「一成くん、おいしい?」 「おいしいよ、ママ」 一縷が追い出されてから三日。ママはずっと機嫌がよかった。自分の好きなものが並ぶ食卓。綺麗に微笑む姿。 全てに腹がたった 一縷は目が見えなくなったらしい。ママが花瓶で殴ったから。今日の朝、見えるようになったとハルから電話があった時には、安心して涙が出てきた。何時の間にかずっと考えるのは一縷のこと。 やっと向き合おうと、決意できたんだな。よかったな。お前も一縷も。 ハルはこう言った。だから、向き合ってもらう。目の前のこの人にも。 「一縷さ、大丈夫かな」 しっかりと目を合わせて言う。ママの瞳が揺らいだ。 「一成くん、そんな話はやめましょうよ」 ふふっ、と笑って目を逸らされた。 「そんな話じゃないよ、心配じゃないの?一縷のこと」 俯いてなにも言わずに、綺麗に飾られた爪をいじっている。ため息が出た。まるで子供だ。 「ねぇ、ママ。一縷に一人暮らしをさせてあげよう」 「え」 「この家にいたら、ママも一縷も壊れちゃう。 だから、」 ♪~ 携帯が鳴る。自分のではない。 「ごめんなさいね、」 そう言ってリビングを後にするママ。 「待って!まだ話終わってない」 バタン、 ドアが閉められた。もう戻って来ないだろう。 「くそ、」 いらいらする。逃げるだけで、向き合おうとしない。頼るべき人はあと一人だ。まだ半分残った食事をそのままに、二階へ上がった。 「もしもし、パパ?」 久しぶりにかけた国際電話。パリは今、お昼どきだろう。忙しそうな声がした。机の上の一縷のための飴。指でいじる。 絶対僕が守ってやるから、 海風が気持ちいい。手が届きそうなほど澄んだ空。 「疲れてねーか」 「大丈夫」 長い坂道。山の上にあるお墓。一縷が、優のお墓参りに行きたいと言い出したのだ。ちょうどお盆だったので、花を買って、久しぶりにこの長い坂道を登る。 「にしても暑いな、」 隣を歩く一縷は俺のぶかぶかの長袖パーカーにジャージの短パン姿。裾から伸びた白くて細い足。アパートから出てきたときに履かせたこれもぶかぶかなサンダル。異様な格好だ。というか似つかわしくない。 「悪いな、まともな服なくて」 視線を隣に落とすと、キョトンとした顔。 「俺は制服しか持ってないし、窮屈ではなくて寧ろ良い」 そういや、寝る時も制服って言ってたな。そんな普通なら受け入れ難い事実を諦めて受け入れてる。こっちが哀しくなるくらいに。 「今度さ、買い物行こうな」 長い袖から、ちょこんと出た指先。一昨日の海辺の様に手を繋いでみた。恥ずかしいのかなんなのか、俯かれただけで抵抗感はない。 「一縷はさ、綺麗だからいろいろ似合うよ」 ぶらぶら、手を揺らす。蝉と海鳥の声しかしない。時折、車のエンジン音。手を繋いでから一言も発さなかった一縷。ただ静かに、行く先を見据えていた ばしゃり、 墓石に水をかける。 花は新しいのが、置いてあり、線香もたててあった。先客が先程まで来ていたらしい。父親だろうか。 「優、久しぶり」 手を合わせる。脳裏に浮かぶのはあの屈託のない笑顔。初めて墓参りに来たのだろう。立ち尽くしていた一縷が横にすわり俺の真似をして手を合わせた。 さわり、 心地よい風が、肩を掠めて海へ吹き抜けた。今までの海風とは方向も温度もちがう風。優しい風だった。一縷は驚いたように、振り返る。 「優だな、」 こんな風のような奴だった。優しく包みこむ風。頬を伝った涙を乾かして、そっと海へかえっていった。 「優に約束した」 帰り道、ぽつり、と一縷が言う。 「ん?何を」 「秘密、だ」 生きて そう言っているような風。だからもう一度、生きていく約束を。ハルを悲しませない そんな約束。 きらきら光る水面。肌にまとわりつく海風。容赦ない太陽。来た時と同じ、甲板からの海の匂い。光の中で見る海はとても綺麗だった。 「船の上、良いだろ」 「ああ」 見上げると陽射しにきらめく、色素の薄い髪。 ハルの両親は見送りまでしてくれた。初めてふれる家族の雰囲気。どこまでも温かかった。 「俺さ、こんなに一気に仲良くなったの、一縷が初めてだわ」 「え?」 「だってよ、先月初めて話したんだぜ」 ぐしゃぐしゃと髪を掻き回してくるハル。何度目だろうか、何時の間にか嫌じゃなくなっていたこの行為。目を細めて笑うハル。仕返しをしてやろうと、手を伸ばした時、 ♪~ 携帯が鳴る。ハルはディスプレイを見て一瞬出るのを躊躇った。誰なのだろうか。 「あー今帰りの船の中だ」 電話をかけて来たのは一成だった。一縷が横に居たので、出るのを迷ったがちょうどいい機会だ。そう考えて通話ボタンを押した。今はあのカフェに居るらしい。 そろそろ帰って来た方がいい。それと家に帰って来る前に一度、一縷と話しがしたい。そう言っていた。 「今な、一縷が横に居んだよ。代わるか、」 『え、でも』 きょとん、とした顔の一縷。 携帯を差し出すと、不思議そうにしていた。 「え、」 「一成だよ、少し話してみろよ」 驚いたように、目が見開かれた。おそるおそる携帯を耳に当てる。 『一縷、?』 「ああ」 『目は大丈夫?』 「もう大丈夫だ」 『そう、よかった。そろそろ帰って来た方がよさそうだよ。ママが探そうとしてる』 「わかった」 『一縷、ごめん、ね』 「え、」 うろたえるような目。どうしたのだろうか。 「ん?どーした?」 「泣いている」 一成が、 くしゃり、と 一縷の髪を撫でて、携帯をひょいっと取り上げる。 「一成、あーもう大丈夫だ。泣くなよ。わかった。伝えるから、じゃあな」 携帯を切る。聞こえたのは、嗚咽を上げるほど泣く声。一成からは考えられない。はあ、と息を吐いた。傷ついてんのは一縷だけじゃない。 「なぜ、一成と」 「んーごめんな、黙ってて」 「そういうことじゃない」 「街であったんだよ。心配してたぜ、一縷のこと」 「そうか、」 海を眺める一縷。 「あまり、一成と話したことがない。だけど 対極にあるような俺のことは、疎ましく感じていると思っていた」 不思議だ。 そう言って黙ってしまった 「一成が、明日家に帰る前に一縷に会いたいってよ」 伏し目がちな瞳。震える長いまつ毛。何かを堪えるように寄せられた眉間。 「泣きたきゃ泣いていーんだ」 ぽんぽん、と肩を叩く。首が横に振られた。 「もう、泣かない」 「そっか、でも溜め込むんじゃねーよ?ぱーん、てなったら、俺のとこ来て、ちゃんと吐き出せよ」 「ぱーん、が分からない」 「あーもう、よし。毎日学校帰りに俺ん家よれよ、な?」 頭をがしがし掻く。反応が無いので視線を下げた。 「え、一縷」 きらきらした光の中で穏やかに笑った顔。初めて見る表情。 綺麗だ、 そしてなにより嬉しかった。 「ありがとう」 「電気消すかんな」 ぱちり、とスイッチを切る。目が見えなかったあの日と同じように、一つのベッドに二人でくっついて入った。 「狭くねーか?」 「ああ」 きゅっ、と服を握りしめられた。こんな仕草ひとつひとつが頼られてると感じて愛しくなる。 アパートに着いて帰りに買ったお菓子を絶品のように美味しいを繰り返して頬張っていたり(一縷は甘党だろう)、宿題をする俺の横で気づいたらテレビを見ながらうとうとしていたり、ドライヤーの使い方がわからず、びしょびしょの髪のままドライヤーをかけて、と持って来たり、以前のツンとした雰囲気の嫌悪感は完全に払拭されていた。今まで分からない事があっても聞く人がいなかったんだろう。そして誰も教えてくれなかった。あの箸使いのようにもともとプライドが高い奴だから、必死に笑われないように取り繕ってきたのだろう。 さらさらの髪を梳く。 「頑張ったな」 「え、」 見上げる不思議そうな瞳。 「俺が居るからな」 ぴたり、と薄暗い中視線を合わせる。 「だから大丈夫だ」 ぐしゃぐしゃ、頭を撫でる。明日からの日々も 乗り越えられる。こくり、頷いてもっと身を寄せてきた一縷。不安でいっぱいなのかもしれない。優しくそっと抱きしめた。ただ不安を消してあげたい。そんな感情。 「おやすみ」 ぽつり、つぶやく。返事はなかった。ただ、握り締められた服やそっと触れた肩から震えが伝わる。一縷の髪を優しく撫でながら何時の間にか眠りについた。 眠れない。明日どんな顔して一縷と会っていいか、わからない。ずっと考えてた。自分が一縷にしたこと。ママに殴られているのを嘲笑ったり、自分の失敗を一縷の所為にしたり。何時の間にか虐げられているのが、当たり前になってた。感覚が麻痺していた。 やっと気づいた。どんなに酷いことをしていたのか。考えただけで身震いがしてくる。自分のたった一人の、双子の兄弟なのに。 「ごめんね、」 約束は明日の10時。ハルと話したあのカフェだ。 きゅ、と 制服のネクタイをしめて振り返る一縷。 「色々、世話になった」 見上げる顔には、ここに来た時の様な酷い隈は 無くなっていた。すう、と目元をなぞる。どうせ、またあの家に帰ったら隈を作るのだろう。 「ハル?」 「ん、行くか」 携帯をポケットにねじこんだ。 街の中を人混みから一縷を守るように進む。一縷は人混みに慣れていないのか、人にぶつかりそうになってはふらふらと俺の腕を探す。なんとか約束のカフェに辿り着いた。 「いらっしゃいませ、」 静かな音楽が流れる店内。物珍しそうに一縷は店内を見渡していた。俺は一成を探す。この間と同じ、窓側の一番奥の席に全く同じ亜麻色を見つけた。 「一成、」 声をかけると考え事から弾かれたように顔をあげた。 「久しぶりだな」 俺が一成の斜め。そして一縷を一成の正面に促す。その間一成は言葉を探すように固まっていた。 「俺、アイスコーヒー。一縷は何にする?」 メニューを渡す。 「いや、いい」 首を横に振りながら、横目で一成の顔色を伺う。 「何でも好きなもの、頼んでいいんだよ」 「え、」 いつもと全く違う一成に驚いた声を上げた。 同じ顔、一瞬視線を交わす。 「大丈夫だ、いらない」 メニューを返してくる。 「一成はいいって言ってるし、甘いもんすきだろ?」 「し、かし」 その間に一成が店員を呼び止める。 「ここね、パフェが美味しいんだ 食べてみなよ、一縷。あ、注文良いですか?アイスコーヒーと、パフェひとつ」 「す、まない」 頭を下げるように俯く。さっきからおどおどしている一縷。そんなに一成が怖いのだろうか。 一方、一成は決意したように息を吐いて口を開いた。 「一縷、今までずっと、ごめんね」 その言葉に、おそるおそる上げられた顔。 「全部知ってた、ママが一縷にしてる事。どんなに一縷が苦しんでたかも知ってた」 からり、と音をたてる氷。今度は一成が掻き回すストローに視線を落とす。 「こんな言葉で許してもらえるほど、たやすい事じゃないけど、本当にごめんね」 言葉が見つけきれない。そんな風に、切られた言葉。一縷は目を見開いていた。 「僕のことを、許してくれなくてもいいんだ。でもこれだけは信じて」 顔を上げて、目を合わせる。 「これからは、一縷の味方だから」 ぴたり、と視線があったまま見つめ合う同じ顔。 「あのね、一縷。一人暮らししてみない?」 「一人暮らし?」 「あの家に居たら辛いでしょ。だからマンションに一人暮らしをしてみない?」 思いがけない提案。 「しかし、母が許すわけ…」 「大丈夫、僕が何としてでも説得するから。それにパパにはもう話をつけてあるんだ」 「やったじゃねーか!!」 一縷の肩を叩くと嬉しそうに見上げて来た。 「でもね、それが早くても来年からになるらしいんだ。だからそれまでは」 言葉を切る。言わなくても分かる。また今までの日々が待っているのだ。 「大丈夫だ、もう慣れている」 「俺も全力で助けるしよ。いつでも俺んとここいよな」 がしがし、と頭を撫でる。ふっ、と笑う一成。 「心強いや」 「お前もだよ」 「え?」 「お前もいつでも来ていいからな」 一縷は言うまでもないが、一成も苦しんでいるのを知っている。 「ありがとう」 いつもの様な作ったような、綺麗な笑みではなくくしゃり、と笑う一成。曇り空を割って、ガラス窓から差して来た光がグラスに反射した。眩しそうに見つめる一縷。 頑張れ そう、何度も反復した。 「じゃーな、」 歩道に停まる、いつか見た黒塗りの車。 「本当に世話になった」 「明日来れそうだったら、またうちに来いよ」 「いいのか?」 目が輝く。ふ、と吹き出してしまった。夏休みは後、一週間だ。 「あ、宿題持って来てくれたら嬉しいです」 「そうだな、昨日のポッキーとやらが食べたい」 「分かった、買っとくよ」 手を軽く握る。 「頑張れ」 「ああ、」 手を離した。すでに乗り込んだ一成に続く。バタン、とドアが閉まると、嫌なほど排気ガスを吐いて車は去っていった。 「なんも無ければいいけどな」 真夏の人混みのなか、立ち尽くして居た。 「この辺りで降りる」 丘へ続く坂の中腹あたり。この先には、自分達の家しかない。 「なんで?家まで一緒でいいよ」 ちらり、と運転手がバックミラー越しに見た。当たり前の事だ。一縷は家族だ。同じ車で帰ることのなにが悪いのか。 「しかし、母が」 「ママは関係ないよ。むしろママがおかしいんだ」 言葉に熱がこもる。不意に、一縷が顔を上げた。ぴたり、と目があった。 「母の拠り所は、一成だけなのかもしれない。だから、今までのように振舞って大丈夫だ」 「一縷、」 肩をつかむ。細く骨張った肩。 「半年ぐらい耐えられる。だから、」 「そんなの自己犠牲だ!一縷はなにも悪くないんだ。だから一縷はなにも気にしなくていいんだよ」 思わず怒鳴ってしまう。肩からびくり、と怯えが伝わった。 「しかし、母はお前を失ったら、狂ってしまうかもしれない」 その言葉に言い返せない。確かにママの自分に対する執着は異常だ。 「それに、ハルもいる。以前よりも状況はずっと良い」 「でも、」 一縷の車を止めて、という言葉を聞いて運転手がブレーキを踏む。降りようとする一縷の腕を掴む。 「ママに捕まったら、出来るだけ大きな音を立てて。すぐに止めに入るから」 「ありがとう、一成」 不意に和らいだ表情。バタン、とドアが閉められる。夏の厳しい日差しを眩しそうに見上げて 一縷は歩き出した。 はあ、と息を吐く。大変なのはこれからだ。とりあえず一縷の身を守らなくては。いつもならママの罵声が聞こえたら、絶対一階に下りないようにしていた。巻き込まれたくなかったから。ただただ聞き流して、傍観して、出来るだけママの機嫌をとって。心の底から自分が一縷の立場になることを恐れていた。だから自分の身を守ることで精一杯で、この状況がおかしいことに気づかなかった。一縷の置かれている状況を聞いて、ひどく怒ったハルのおかげで、やっと、気づくことができた。以前の自分の行いを振り返ると寒気がする。半袖の剥き出しの腕をさする。 「冷房切りましょうか?」 「ん?いや、大丈夫だよ」 「ただいま」 「お帰りなさい、一成くん」 綺麗に微笑んで、リビングから顔を出すママ。機嫌は良さそうだ 「今日は撮影無かったの?」 「昼まで行って来たのよ、今度は表紙なんだから」 「流石、ママだね」 これなら大丈夫かもしれない。 ガチャリ。 玄関の扉がそっと開く。おそるおそるといった感じに開かれた。 「あ、お帰り一縷」 「た、だいま」 俯いてぼそぼそと呟く。 靴を靴箱に直す一縷を、じっ、とママは見つめていた。その顔は見たこともないほどゆがんでいた。 「今まで何処にいたの?」 「ママもういいじゃんか。放っておこうよ、ね?」 ママの腕をとる。しかし、予想外にもするり、とママは拘束を抜けた。 と、右手が玄関の置物に伸ばされるのは同時だった。 がしゃん、 確かパパが買って来た陶磁器の置物。藍色の装飾が綺麗だった。投げつけられてとっさに頭をかばった一縷の腕に当たって砕けた。 「一縷!」 慌てて駆け寄ろうとしたが一瞬ぶつかった視線が来るな、と訴えていた。 「ママ、もう一縷は放っておこう。僕、お腹減ったんだよね」 声が上ずる。うなだれて次の暴力に怯えている姿。手の甲から血が垂れている。見ていられなくて視線をそらす。鼓動が早くなる。罪悪感でいっぱいだ。 ごくり、と唾を飲み下す。 「そうね。あ、アップルパイをいただいたのよ」 自分に向けられた上品な笑み。寒気がした。確かにママは狂気とすれすれの所に居るのかもしれない。 精一杯、リビングで笑顔を作って居る間、小さく階段を上る足音が聞こえた。すこし安心した。ママが二階に上がることは、まず、無いから。 大好物である筈のアップルパイは、どこか無理に作られた甘さで、食べ切ることが出来なかった。 しん、と静まりかえった空間。置き時計は1時を指していた。パタン、と参考書を閉じる。流石に疲れているのかもしれない。というより、昨日までのハルとの三日間。この時間帯には眠っていたからだろうか。睡魔が襲ってくる。そのまま床に横になった。 ずっと忘れていたかのような感覚。みしり、と体が痛む。ふ、と感じた、温もりが無い事への寂しさ。Yシャツの両肩を自分で抱きしめるようにして、眠りに落ちた。明日は朝一で図書館に行って、ハルが起きそうな時間にアパートを訪ねることにしよう。そう考えて睡魔に身をまかせる事にした。 ぎいっ、屋根裏部屋への入り口が開けられた。 一歩ずつ、天窓から差し込む微かな月光だけを頼りに進んでくる、傍らに立つ影。気付いて眼を覚ますことが、出来なかった 「ぐっ、」 突然、脇腹にはしる痛み。反射的に唇を噛んてしまった。覚醒しきれていない頭。ぼんやりとした意識のなかで、次は頭に鈍い痛みが走る。 「っあ」 床に打ち付けられた。ゆっくりと目を開けた。暗闇に立っていたのは、やはり母だった。 「一成君に、何言ったのよ…!」 その声は泣いていた。 そのまま、いつものようにあちらこちらに痛みが走る。いつもとちがうのは、母が手を上げていること。絶対に触れることのなかった手で、何度も頬を打たれた。 「ねぇ、何て言ったの?」 狂ったように叫ぶ母。何度も一成くん、と繰り返す。鈍い痛みが支配する身体。甲高い母の声。全てを消すかのように、意識を手放した。 目が覚めたときには、窓から光が差していた。体を起こすと全身に痛みが走る。 「つ、」 気を失った後も、殴られ蹴られしたらしい。何時なのだろうか。ハルが心配しているかもしれない。とりあえずシャワーを浴びて、ところどころ血のついたYシャツを変えなければ。物置部屋に下りて、そっとドアを開ける。誰もいないことを確認してから廊下に出た。ドアの前には何時ものように洗濯物が置いてある。それを拾い上げた。 「一縷…!」 自室からちょうど一成が出てきた。慌てて駆け寄ってくる。 「き、のうの夜にやられたの?」 恐る恐る、頬に手をのばしてきた。信じられないといった感じだ。そんなに酷いのだろうか。 「大丈夫だ、」 「大丈夫じゃないよ。ちょっと待ってて。氷をとってくるから」 「いい、母に見つかったら」 腕を掴んで止める。 「それに、今日はハルの家に行く。だから、」 「今日はやめといた方がいい。ママがね、一縷を外に出さないように玄関を見張ってる。一階にも下りないほうがいいよ」 三日、家に帰らなかったことを怒っているらしい。唯一の楽しみだったのに。 「そ、うか」 と、階段を上がってくる音が聞こえた。慌ててシャワーのある客間に入る。ドアノブを内側から握りしめた。 「今、誰かと話してなかった?」 「うん、電話してたよ」 「物置部屋にはいっちゃだめよ、一成くん」 恐ろしいほど、甘ったるい声が廊下から聞こえた。ぞわり、と鳥肌がたつ。階段を下りて行く音がした 頭からシャワーを浴びる。ふと、鏡に映る自分の姿。醜く腫れた頬。そして、視線を下げると 首筋についた、あざ。ちょうど首を締められたような。母の自分に向けられた憎しみを、具現化したかのようなあざ。 恐ろしかった。いつ自分の寝込みを襲われるか分からないのだ。 自分の手を首にあてる。ぐっ、と力を込めた。 「つ、」 苦しい 苦しい ごめんなさい。もう息をすることも、許してもらえない。

ともだちにシェアしよう!