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4 明砂(Jul.18th at 15:40)

 北区某所にある、60階建てのタワーマンションの52階のワンフロア。そこが明砂の住まいだ。  地下からの直通エレベーターで一気に上がると、瀟洒な広々とした玄関前ロビーに辿り着く。  扉を開けると、若い女性が出迎えてくれた。小柄で童顔な彼女は30代前半で、母親というよりは姉と言った方がいいようなルックスをしている。 「ただいま…。」  照れ臭そうに挨拶すると、彼女も控えめな笑顔を浮かべた。 「お帰りなさい。…今日、ご免ね。病院に付き添わなくて。」 「ああ、いや…。僕が一人で行くって言ったんだし…。何の問題もなかったよ。」 「ええ。病院からの通知を見たわ。…本当、良かったわね。」  そこはかとなく、ぎこちなさが窺える二人は、義理の親子だ。明砂の実の母は、彼が8歳の時に病死している。  明砂の父親が彼女と再婚したのは先月の事で、まだ、お互いの存在に慣れていないのだ。  明砂が彼女について知っている事は、千咲(ちさき)という名前と、33歳という年齢のみで、父との馴れ初めについても知らされていなかった。  そんな彼女の事を、「お母さん」と呼べる筈もなく、この先も呼べるのか、明砂は自信が無かった。 「…何か、おやつでも食べる?」  千咲に、小さな子供にでも聞くような言い方をされた明砂だったが、不思議と嫌な気持ちにならなかった。血の繋がらない男女だという認識を無視して、子供扱いをして貰った方が、今は都合がいいからだろう。 「ううん、いらない。今日も、これから(れい)君のとこに行くんだ。」 「そう。夕飯には戻って来るのよね?」 「うん。…お父さんは今日も、七時頃に帰って来るよね?」 「ええ、その予定よ。」 「それじゃあ、僕も7時には戻るから。」  そう言って、明砂は自室へ向かった。  自室へ入り、扉を閉めると、義母である彼女に異性を感じている自身を戒めた。 ――樹人(みきと)兄さんが居てくれたら、まだ気まずい思いしなくて済むのにな…。  明砂は五つ年上の兄を思い浮かべる。彼は2年前から、アメリカのとある企業に研修に行ったっきり、一度も帰国していない。  7LLDKという広い間取りなので、彼女と空間の共有を避けられるのだが、それでも何故か、落ち着かなくなってしまう明砂だった。 ――…怜君、居るよね?  出掛ける口実にした、相手の所在が気になり、明砂は何もない空間でキー操作するように手を動かし、メールを送信する。 『今から怜君のとこ、行ってもいい?』  その後、瞬時に返信が来る。 『いいよ。玄関開けて、待ってるね。』  その内容に一安心した明砂は、高校の制服からTシャツとハーフパンツという軽装に着替えて、部屋を出た。  リビングルームを通る時、千咲が長い髪を掻き上げて、首の後ろを気にしている姿が目に入った。 「…首筋、どうかしたの?」  見過ごそうとした明砂だったが、千咲と目が合ったので問い掛けた。 「うん、ちょっと痛みを感じて…。でも、気のせいだったみたい。」  千咲は髪を戻し、笑みを見せた。そんな彼女に、明砂は色香を感じてしまい、少しだけ目を泳がせた。 「…そう。…じゃあ、行ってきます。」  足早に玄関を出て、エレベーターへ乗り込むと、明砂はひとつ上の階へ上がった。 「いらっしゃい。」  そう言って明砂を出迎えたのは、光嶌(みつしま)怜という、明砂の二つ年上の幼馴染だ。  背が高く、スタイルもいい彼は、よく見ると、若干、斜視気味であるのだが、それが気にならないほど、整った顔立ちをしている。  リビングに通された明砂は、身震いしてみせた。 「部屋、寒すぎない?…室温19度設定!?」  怜はサマーセーターに冬物のカーディガンを羽織っている為、平気そうだが、薄着の明砂には辛い設定温度だった。 「あー、ご免。コンピューターがフル稼働中だったからさ…。全体的に部屋の温度、下げすぎちゃったかな。」  言いながら、怜が仕事部屋以外の空調を調節してくれた。  怜と明砂は生まれた時の家が隣同士で、親同士の交流も有り、必然的に兄弟レベルで親しくなった。  振り返ると、実の兄よりも、怜と一緒に過ごした記憶の方が多いくらいだ、と明砂は思う。  それでも彼らが離れた期間は、一時的に存在した。  明砂が13歳の時、今のタワーマンションに引っ越してしまったからだった。  怜との予期せぬ別れに、大号泣してしまった明砂だったが、時間が経つと、次第に連絡する回数は減っていった。  そのまま疎遠になってしまうと思われた二人だったが、それから3年が経過しない内に、怜が単身で上階に越してきたのだった。  それを機に二人の交流は再開した。  離れていた間を埋めるように、特に明砂の方が、怜の部屋を多く訪れている。 『…明砂の住んでるタワーマンションはさ、上階の住人は皆αだって噂あるんだけど、知らない?』  明砂の友人の一人である直樹が言ったその噂は、真実かと思われた。  利便性の高い、このタワーマンションの部屋は全て破格で、上階に行くほど高額になり、人生の勝ち組にしか買えない物件なのだ。  その物件を購入した明砂の父は、ホテル王と呼ばれるαであり、その遺伝子を受け継いだとみられる兄もαだった。  そして怜がαな事も、明砂は知っている。  αは性因子のひとつであり、遺伝子にそのマークがあれば、全てにおいて優れた人間として成長する。αの人口率によって、国の優越も決まるらしかった。  しかし近年、個人的なα性の公表はしない風潮になっている為、αのネットワークに属さないβに、αの情報は届かず、時折、都市伝説のように語られるのであった。  明砂の父の家系に、αの人間は多い。しかし明砂に、α性因子は現れなかった。  それでも、家族に溺愛されて育った明砂は、それほど劣等感も持たずに過ごして来れた。αの恩恵を受けて、今の自分があると考える事もあるくらいだ。  だが、明砂はこの事情を、他人には知られたくないと思っている。  明砂はリビングのカウチソファに落ち着く。  ここも7LLDKという、明砂の住まいと同じ間取りだが、極端に物が少なく、薄いブルーを基調としている雰囲気からか、印象は全く異なって見える。 「仕事中に、ご免ね。」 「いや、ここの処、連日来てたし、そろそろかなって思って、さっき中断したんだ。」  明砂が申し訳なさそうにしたのは束の間で、直ぐに怜の包容力に甘えた。

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