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7 明砂(Aug.5th at 7:00)
明砂の治験生活が始まった。
生まれて初めて、私的通信を使えないという環境に戸惑いながらも、決められたルーティンワークに流されていく日々を送っている。
僅か4畳ほどの、白い壁に囲まれたキャビンタイプの個室。そこが明砂に与えられた寝起きする為の場所だった。
朝方、その室内は、暗闇が徐々に調節されるように薄まっていく。窓がない為、時間管理による調光がなされているのだろう。
明砂が眠るベッドサイドの壁に、プロジェクターの映像が妖精のようなキャラクターを映し出した。それが起きるように、明砂に話し掛けてくる。
午前7時。一日が始まる時刻だ。
部屋の明るさが増し、目を覚ました明砂は、部屋の隅にある小さな洗面台で洗顔等を済ませ、軽く寝ぐせを直した。それが終わると、据付けのワードローブの扉を開ける。その扉は壁と同じ白一色で、開いても白く、十分なほど詰め込まれた衣類も、全て白いのだった。
まるで色の無い世界に来てしまったみたいだと、明砂はそんな感想を抱いた。
明砂は支給された白いロングTシャツとズボンから、全く同じ衣類へと着替える。
衣類は好きな時に好きなだけ着替えていい事になっている為、明砂は風呂上りと寝起きは、必ず着替えるようにしていた。
見た目の印象は同じだが、それでも新品の感覚が、気を引き締めてくれる。
因みに下着の支給はなく、直にズボンを穿いた状態となっているのだった。
着替え終わると、洗面台寄りの壁の前で、手のひらを翳 し、右斜め上にスライドさせる。すると、30cm角の開口が現れた。それはランドリー・シューターで、明砂は脱いだ物を全てそこに投げ入れた。
それを見計らったかのように、壁に映し出された妖精キャラが告げる。
「間もなく、お薬の時間です。職員が来るのを待って下さい。」
明砂はベッドに座り、それを待った。
数分が経ち、扉がノックされると、明砂は外へ出る。
「おはよう。気分はどう?」
施設職員の若い男に、笑顔で出迎えられた。
職員の制服は濃紺で、白が基調の施設内で異様に目立っている。
「まあ、普通です。」
明砂が答えると、職員の男は、小さな絆創膏が入ってそうな紙片を手渡した。
明砂は受け取ると、それを開封し中身を取り出す。それは1cm角の、薄いピンクのフィルム製剤だった。
それを職員の前で舌に乗せると、瞬時に溶け、吸収されてなくなった。
この投薬は一日に三回、食前に、職員が見守る中、行われるのだった。
機能向上する薬品らしいのだが、投薬後の実感は、今ひとつ湧かない明砂だった。
薬を飲み終わると、職員は隣の部屋へ向かう。部屋の扉をノックすると、眼鏡を掛けた、小柄で猫背な青年が現れた。明砂同様、白ずくめな身なりをしている為か、黒縁の眼鏡は少し浮いて見える。
投薬後、被験者達は各自で食堂へ向かう事になっていたが、明砂は直ぐには向かわず、その場に留まった。
眼鏡の彼を待っているのだ。
職員が先へ進み、行ってしまうと、二人の目が合う。
「おはようございます。」
「おはよ…。待ってなくていいって言ってるのに…。」
明砂が笑顔で挨拶すると、彼は小声で返した。その顔は困惑気味だが、嫌がってはいないようだ。
そこから二人は、肩を並べて歩き出す。
眼鏡の彼は、明砂がこの研究施設に来て、最初に声を掛けた人物だった。名前を琴平 累 という。
明砂の居るこのフロアには、現在15名の被験者がいる。それを5名ずつの3グループに分けてあるのだが、明砂は同日に地下鉄で連れて来られた、他の5名とは別のグループに配属されてしまった。
人見知りしないタイプなので、隣の部屋から出て来た累に、躊躇う事なく話し掛けた明砂だった。
彼の見た目から同じ年頃だと判断して、タメ口で自己紹介してみたら、思いの外、不機嫌な対応を取られた。
「…大学二年。今、ハタチ。」
彼に年齢を言われ、明砂は彼の不機嫌の原因を、直ぐに突き止めた。年下からのタメ口を、嫌うタイプなのだろう。明砂は慌てて取り繕うと、敬語に切り替え、自己紹介をやり直したのだった。
その時から明砂は、基本が不愛想な彼と行動を共にしている。
見えない壁を作り、あからさまに話し掛けないでオーラを放つ累は、勿論、自分から人に話し掛ける事もない。どうして態々そんな彼を構うのかと、周囲からは不思議がられているようだが、明砂的には、そう難しい相手とは思っていない。自分の殻に閉じこもっている姿が不憫で、明砂は寧ろ、彼を構いたくてしょうがなかった。
累は明砂が来る二日前から、ここに来ていると言った。
一緒に行動していると、累は施設内についての補足説明を、要所要所でしてくれる。
本来の累は、面倒見のいいタイプなのだと、明砂は人知れず気付いた。
――損しちゃってるな、琴平さん…。人見知りプラス、自己防衛の為の手段…なのかな?きっと何か、彼をこんな風にさせる、悲しい出来事があったのかも知れない。
感受性豊かな明砂は、累が殻に閉じこもる経緯を勝手に想像し、更に彼を放っておけなくなってしまうのだった。
その甲斐あってか、三日目の終わり、累に変化が見られた。
名字にさん付けで呼ぶ明砂に、気恥ずかしそうに、下の名前で呼んでいいと累が言った。
「じゃあ、累君…で、いいですか?」
明砂が顔を輝かせて、君付けで確認すると、累は照れ臭そうに頷いた。その口角は上がっている。
それが初めて見せてくれた、累の笑顔だった。
「僕の事も、明砂って呼んで下さいね!」
累との心の距離は、日々、縮まっているのだと、明砂は実感する。
二人は食堂へ到着した。
食堂は白を基調とした他の部屋とは異なり、温かみのある色彩で溢れた、カフェ・レストランといった雰囲気の場所だ。
――早く食べたいな。
ここに来ると、自然に食欲が湧いてしまう明砂だった。
壁に固定された四人掛けのテーブル席六つが、対象に配置されている。その間を通路にした一番奥に、ドリンクやデザートが常設してあるガラスのショーケースが、存在感を放っていた。
既に十人ほどが朝食を摂っており、誰も利用していないテーブルは二つあった。その内のひとつに、明砂と累は座る。すると、テーブル上に選択メニューの画像が浮かび上がった。
朝食では、和食か洋食の二択となっている。明砂は洋食を、累は和食の画像をタッチして選択した。
暫くすると、テーブル付きの壁の一部が開口し、トレイに乗った朝食が二人分、姿を現した。
主食・主菜・副菜といったもので構成されたそれは、毎回、何処かの旅館や、ホテルの朝食メニューを再現しているらしかった。
笑顔でトレイを受け取る明砂に対して、累は気が進まない様子で受け取る。
「朝からこの量って、毎回辛い…。」
茶碗に大きく盛られた白米に、累は溜息を落とした。
「僕もね、普段は朝食、食べない方だったんですけど、意外と食べれたみたいで…。」
同意しようとした明砂だったが、隠せない食欲を見直し、誤魔化すように笑って見せた。
累は少食の上、好き嫌いが多そうだった。たまに半分以上、残したりするので、余裕がある時は、明砂が食べて手伝う事もあった。
「太っても知らないよ。」
そんな明砂に、累は冷たく言い放つ。
「それがね、太らないんですよ。…まだまだ成長期なのかな?」
「へぇ、いいね、身長が伸びて。」
明砂は174cmという、すらりとした体躯をしている。可愛い系の顔からは、よく意外に思われる身長の高さだった。対する累は170cmに、一歩及ばないくらいの身長だ。少食ではあるが、別段、痩せて見えるわけでもない肉付きをしている。
そんな累を、実はダイエット中かも知れない、と秘かに思う明砂だった。
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