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8 明砂(Aug.5th at 9:00)

 朝食を摂り終えると、明砂は累と談話室へ向かった。  扉を開けて、先ず目に入るのは、屋外の風景が投影されている壁だった。開放的な錯覚に囚われそうになるが、二箇所に存在する扉が空間を切り取っており、作り物なのだと再認識させてくれる。  奥側には、カフェ・コーナーとトイレも完備され、中々の居心地の良さとなっている場所だ。利用者数も多く、消灯時間まで無人になることはない。  明砂と累は毎朝食後から、長くて9時半近くまでの時間を、ここで過ごす事にしていた。  この部屋の隣にあるカウンセリング室で、毎朝9時から、簡易的なテストが行われるのだが、カウンセリング室の定員数は5名で、必ず待ち時間が発生する。  談話室には、そこへ直通する扉がある為、時間を潰すのに調度いいのだ。  明砂と累がテストを受ける番が回って来た。  カウンセリング室に入ると、誰に誘導されるでもなく、五台ある机の内のひとつに明砂は座った。  累もその隣の席に着いたが、パーテーションに区切られている為、様子は分からない。  机上自体がモニターとなって、テスト画面が表示されると、無音のまま、それは開始された。  特に指示はなく、モニターに幾つか同時に出る写真やイラスト、図形の中から、ひとつ選んでタッチすると、次の映像に切り替わる。それが10分間、行われるのだ。  それは心理テストや直感力を見極めるものに似ており、正解があるのかも不明のままだ。勿論、結果を知らされる事もない。  テストを終えた二人は、談話室の隣にある図書室へと移動した。  数えきれないほどの蔵書が窺えるこの図書室は、実はバーチャル空間で、施設独自のネットワークにより作られているのだった。  一時的に両目の中のインプランタブル・デバイスが機能するが、許されたサーバーにしかアクセス出来ない。それも受信のみで、こちらからの送信は、不可能な設定にされているのだった。  今の利用者は少なく、累の警戒心が緩むのを明砂は感じた。  累は大学での勉強が忙しいらしく、夏休みでも毎日図書室を利用し、許可された大学のサーバーにアクセスして勉強している。  それに付き合う形になっている明砂は、彼の隣の席に座り、読書や映画鑑賞をしたりしていた。  夏休みの宿題は、うっかり個人のサーバーに置いてきた為に、アクセス出来なくなっているのだ。  暫くすると、数名が入室して来た。その中の一番背が高い青年は、明砂が初日に地下鉄で一緒になり、気になっていた人物だった。  青みを帯びた長めの髪は艶やかで、整った彼の顔を際立たせている。 ――あ、あの人だ…!  明砂は読書を中断し、気になる彼を目で追った。それに気付いた累が、訝るように問う。 「どうかした?」 「あ、いや…。ここに来る時に一緒になった人が、今、入って来て…。あの人、恰好いいですよね?」  明砂は累に、気になる彼を、こっそりと指し示してみた。 「は?君って、そっちの人?」  ちらりと確認した累が、嫌悪感を浮かべた。 「いや、ちゃんと女の子が好きですけど!綺麗な人には性別関係なく、目がいっちゃうんですよね。」  性的嗜好を疑われ、明砂は早口に返した。それから、ひとつ付け加える。 「あの人って、αっぽくないですか?」  思わずαと口にしてから、明砂は少しだけ後悔した。αの存在を知らない人間もいるからだ。しかし、累の反応は、鼻で笑い、直ぐに真顔に戻すといった感じだった。 「ここにαが居るワケないだろ。この治験の募集要項、ちゃんと読んでないんだな…。この治験は、αは受けられないんだよ。機能向上、若しくは能力向上のサプリメントの試験で、平凡な人間ばかりが集められて、受けさせられてるんだからさ。」  そうだったかな、と思いつつ、累がαの事を理解しているのだと知ると、明砂はほっとした。 「つまり、βしかいないって事ですよね?…この治験の目的って、実は人工的にαを作り出すこと…だったりして。」  冗談交じりに明砂が言うと、それに関しては肯定的な表情が返ってきた。 「無きにしも非ずだね。上手くいっても、一時的だとは思うけど…。」  二人がひそひそと話していると、噂の彼が近付いて来た。累の表情が徐々に強張っていく。彼の人見知りが発動した、第一形態といったところだ。 「二人共、勉強中なのかな?…まだ学生だよね?」  柔和な笑みで話し掛けて来た彼は、明砂の方に視線を留めた。 「君は…参加初日に一緒だった子だ。」 「あ、はい!…高峰明砂、高校生です!」  覚えられていた事に、思わず声を張ってしまった明砂だったが、場所をわきまえて、直ぐにトーンを落として名乗った。 「俺は都積(つづみ)。社会人だよ。そっちの彼は…大学生かな…?」  都積と名乗った彼の視線が累へ移ると、あからさまに累のとげとげしさが発動した。 「今、忙しいんで…。雑談するなら、他所でやってくれます?」  何故か明砂ごと、ここから追い出そうとする物言いだ。そんな態度に怯むこともなく、都積は累に対して話を続ける。 「ご免、ちょっとだけ!その眼鏡で通信してるの?」  今の時代、視力は五分足らずの日帰り手術で矯正するのが主流なので、眼鏡はファッションか、デバイスのひとつとして受け取られる。 「…してますけど、ちゃんと許可は取ってありますよ。」 「ちょっと、見せて貰ってもいい?」  都積は言いながら、素早い動作で、累の眼鏡を取り上げてしまった。 「え、あ!勝手に…!」  狼狽える累には目もくれず、都積は眼鏡を掛けた。 「ふうん、大学のサーバーに繋がってるんだ。…受信のみ出来るんだったね。君って薬学部なの?」  勝手に覗かれて、累は憤慨寸前だった。 「そうですよ。もう、返して下さい!」  累が掴み掛かる前に、都積は眼鏡を返した。 「治験(これ)に参加したら、なんかメリットがあるとか?」  反省の色が全く見られない都積は、質問を続けた。  眼鏡が戻り、それを掛けた累は、不機嫌な顔のまま答える。 「…定期的にあるテストが、幾つか免除になるくらいですよ。」 「じゃあ、自分の意志で応募したの?」 「そう…ですけど…。」  その返事は、歯切れが悪いものだった。 「誰かに勧められたわけじゃなくて?」  執拗な都積の問に、累の怒りが復活した。ボリュームを落とした怒声で、都積に言い放つ。 「あなた、何なんですか?これ以上、邪魔しないでもらっていいですか!?」  それを見兼ねた明砂が席を立ち、都積の手首を掴んだ。 「都積さん、僕と二人でお話しましょう。こっちへ…。」  そのまま彼の手を引き、図書室を後にする。

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