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1 司季(Jul.29th at 12:52)

 神田地域のとあるオフィス街に足を運んだ青年、都積(つづみ)司季(しき)は、幾つか立ち並ぶ複合ビルの内のひとつに入った。夏の強い日差しから、漸く解放され、一息つく。  八階建てのこのビルは、24坪と小規模で、老朽化こそしていないものの、そこそこ古びている。それでも好立地の為、全ての階が会社で埋まっていた。  セキュリティー・ゲートである内扉を通り、司季がエレベーターに向かうと、5、6人の中年男性が、そこに佇んでいた。ランチタイムがそろそろ終わろうとしている時間なので、外食の後、自社へ戻るサラリーマン達なのだろう。  エレベーターの定員数は9名なのだが、司季は彼らを避けるように、横の階段室の扉に進んだ。  階段を足早に駆け上がり、五階を目指す。  息も切らさずに、辿り着いた先は鈍色のスチールドアで、そこに貼られているネームプレートには、鏑木(かぶらぎ)探偵事務所と書いてある。  ここが司季の職場だった。  少し長めな薄茶の髪を軽く整え、ひんやりと冷房の効いた中に入ると、一気に汗が引いた。  こぢんまりとしたロビーを通過し、磨りガラスのパーテーションの内側に入る。  中央に寄せられた三つのデスクは、綺麗に片付いており、そこに人の気配は無かった。  それを一瞥して、所長室の扉をノックした司季は、返事を待たずに扉を開けた。  ロッカーの鏡の前でネクタイを締めようとしていた、50代前半とみられる男が、半ば諦めたような視線で振り返る。 「ノックしたら、返事を待てって言ってるだろうが…。」 「俺と一真(かずま)さんの間で、今更でしょ。」  反省の色を見せないまま、司季は中へ入った。そんな彼に、一真と呼ばれた男は喝を入れる。 「仕事に来たら、所長と呼べ!遊びに来てるんだったら、即クビにするぞ!」 「分かってますよ、所長。…そう言うなら、ちゃんとした仕事、俺にもやらせて下さいよ。」  司季に反省の色は一切、見られない。 「ちゃんとしてない仕事を、やらせてるつもりはないけどな…。そんな事より、病院、どうだった?」 「別に…。いつもの定期健診だし!そんな事より、所長、出掛けるの?」  ネクタイを結び終わった一真は、スーツの上着を羽織った。司季は少しだけ、ソワソワし始める。 「ああ、あと少ししたら、依頼人と一緒にな。」 「また、浮気調査?」 「また…って、今回のは失踪者の捜索依頼だよ。みんな出払ってるし、留守番、頼むわ。」  そう言われた直後、司季のソワソワ感が掻き消えた。露骨に嫌そうな顔をして見せる。 「え?冗談でしょ?…姐さん、今日、休みだったっけ?」  司季が姐さんと呼んだ人物は、この事務所のサイバー捜査を担当している、鴨居(かもい):(エリサ)という女性だ。基本、内勤の彼女が、外で仕事をすることは滅多にない。 「いや、今日は鴨居も外に出てもらってるんだ。…留守番も立派な仕事だぞ!」  一真が所長室を出ると、司季も後を追った。 「…あのさ、前みたいに、検察から直接依頼を受けるの辞めたのって、涼香(りょうか)さんの看病があるからなんだよね?」  従業員デスクのひとつに座り、何やら作業を始めた一真は、ぴくりと眉を顰めた。  涼香というのは一真の妻の名前で、彼女は5年前に原因不明の難病に掛かり、自宅の医療用ベッドで寝た切りになってしまっているのだった。  無言でいると、司季が言葉を続ける。 「でもさ、高い治療費や給料を支払うには、検察や、刑事事件を扱う弁護士の依頼を受けた方がいいと思うんだ。」  一真は溜息を洩らした。 「…あの仕事は、言うほど割に合わないんだよ。警察がやらない潜入捜査に、違法な盗聴、盗撮。長期間、家に帰れない事もざらだ。そして、それらで掴んだ証拠を、使えるものに変えなきゃならない。」  司季は強く頷いて見せる。 「分かってる。でも、あの頃は収入も安定してただろ?…だからさ、今年から正式に探偵になった俺が、それを引き受けるよ。俺がやるんだったら、問題ないだろ?」  妙案とばかりに、司季が話を持ち掛けると、思いの外、厳しい眼差しを向けられた。 「駄目だ。お前が探偵やるって言い出したから、危険な仕事は引き受けないようにしたんだよ。」 「…どういう事?」  ショックを受けた司季は、悲しげに一真を見つめる。  一真が言葉を返そうとしたそのタイミングで、AIが来客が来た事を告げた。 「この話は改めてしよう。…今は時間がない。」  そう言い残して、一真は出て行ってしまった。  独り取り残された司季は、一真が去った方向を見据え、唇を噛んだ。 ――一真さんと同じくらいの背になったし、年だって、もう23だ。それなのに、一真さんにとって俺は、いつまで経っても、被害者のまま…なのかな。    司季と一真の出会いは、17年前に遡る。  当時6歳だった司季の身に、両親を殺害され、誘拐されてしまうという、悲惨な事件が起こった。  その頃、一真は所轄の警察官で、誘拐された司季は、彼によって救い出されたのだった。

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