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7 司季(Jul.29th at 13:46)

 応接室へ通された犬童は、二人掛けソファに腰を下ろす前に、磨りガラスのパーティションに区切られた向こう側を気に掛けた。 「あの、他に…所員の方は…?」  司季は対面に座ると、掌でソファを指し、犬童にも座るように促した。 「今日は偶々(たまたま)、出払ってます。…俺じゃ、頼りないですか?」 「あ、いいえ!…頼りがい、十分にあります!」  犬童の生真面目な態度に、司季は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。クールさをなんとかキープする。 「それではIDの提示をお願いします。必要最低限の情報で構いませんよ。」  IDは交換する際に、役所等の手続きではない限り、相手に提示したくない情報を、故意に伏せることも出来る。 「…分かりました。ちょっと、お待ち下さい。」  犬童はビジネスバッグを漁り、眼鏡ケースを取り出し、チタンフレームの眼鏡を掛けた。 「眼鏡タイプのデバイスですか?」  意外そうに司季が問うと、犬童はまた赤面した。 「はい。ウォッチタイプと併用してますが、ウォッチは仕事用なので…。ウェアラブルなんて、インプランタブル世代の人からしたら、笑っちゃいますよね。いや、お恥ずかしい。」 「そんな事はないです。うちの事務所にも、インプラントしていない者もいますし、俺もウェアラブル・デバイスを、全く使わないって事はないですから。」  鏑木探偵事務所内において、インプランタブル・デバイスでないのは、IT担当の鴨居エリサ、ただ一人で、彼女は普段、コンタクトレンズタイプのデバイスを愛用している。残りの警察官上がりの二人は、インプラント管理法が定められてから直ぐに、半ば強制的に角膜内にデバイスを入れる手術をしていた。  犬童をフォローしつつ、司季は義眼内のデバイスを起動し、鏑木探偵事務所としてのIDを準備した。しかし、彼はまだ言い訳を続けている。 「今は視力矯正の手術の際に、インプランタブルに移行する人も多いんですよね。凄く羨ましいんですけど、私の信仰する宗教では、体に異物を入れる行為が許されてなくて、旧式のまま生きていくしかないんですよ。」 「…色々、あるんですね。」  どんな宗教だよ、と内心小首を傾げながら、司季は犬童のID提示を待つ。  漸く犬童の眼鏡が信号を発してきた。肉眼では見えないが、デバイス同士ならキャッチ出来るシグナルだ。  受け身の犬童のIDを、司季が最初にスキャニングし、それから探偵事務所のIDを送る。  その作業を終えた司季は、露出する肌の全てが赤くなっている犬童に気付いた。 「すみません。…見つめ合うの、慣れてなくて!」 「いや…。」  見つめ合ってたわけじゃないだろう、と諭したかった司季だったが、言葉にしないでおいた。  司季は犬童のIDをチェックする。  住所や勤務地に問題はなかったが、ふと、彼の年齢が気になった。 ――犬童公亮、2030年1月生まれの32歳…?  彼の同期だという林の年齢は30歳だった筈だ。年齢差のある同期は、そう珍しくもないのだが、少し気になったので、それについて訊いてみる事にした。  司季は問おうとして、犬童が何故か、がっかりしている様子に気付く。 「あの…、どうかされました?」 「このIDって、こちらの会社のものなんですね。」 「ああ、そうですね。…ホームページに記載された情報と、ほぼ同じで、申し訳ありません。」 ――何、この人。俺の個人情報が欲しかったの…?  訝しんだ司季に対して、犬童は速やかに応答する。 「いえ、全く、問題ありません!」  司季は気を取り直した。 「犬童さんと亡くなられた林さんは、同期という事でしたが、年齢差があられますね。」 「それは私が、大学院でちょっと、ゆっくりしていた所為なんですよ。」  犬童が照れ笑いを浮かべ、司季は納得してみせた。 「ご依頼の内容を確認させて頂きますが、林さんの事故死の原因と、印南さんが治験で亡くなったという証拠を、見つけてくれば言い訳ですね?」  犬童は頷かない。 「出来れば、治験の内容を探って頂きたいのですが…。勿論、二人の死は重要です!でも、その引き金になったのは治験と思われるので、そこを重点的に探って頂きたいのです。」 ――どうしても潜入させたいんだな…。  犬童の意気込みに、司季は再度、治験の募集要項が書かれた電子ペーパーに目を通した。  潜入捜査に憧れていた司季だったが、これは少し違うといった思いが拭えない。 「研究施設って、何処にあるんですか?」 「それが…不明なのです。箱根付近、いや、箱根方面にありそうなのですが、マップにはそれらしき建物は有りません。」 「カモフラージュされている可能性が高いですね。…印南さんのご遺体が見つかった旅館が怪しいとか?」 「…私が調べた限りでは、そこではありませんでした。」  司季は流石に溜息を零した。 「…その、失礼ですが、あなたはβですか?」 「は?」  犬童の急な問いに、司季は顔を上げ、思わず目を丸くした。一瞬、βって何だっけと思考を巡らす。 「…いや、見た目の印象がαっぽい気がして。そこにも書いてあるのですが、αだと治験は受けられないんです。」  司季の疑問を他所に、犬童は周知の事実として、今度はαという単語を出してきた。  司季は電子ペーパーの文字を目で追い、下方にある、▶マークをタッチする。ページが切り替わると、幾つかある注意事項に、そのような項目が書かれている箇所を見つけた。 ――ああ、αね。そんな人種が存在してたな。彼らとの区別を付ける為に、普通人をβって呼ぶんだったよな…?  司季は薄っすらと思い出し、憶測で納得してみた。 「本当だ、書いてある。…そうなんですね。俺はβですよ。…αって名乗る人に会った事はないんですけど、αだと通知が来るんですよね?そういう連絡は受けてないんで、大丈夫ですよ。」  犬童は胸を撫で下ろして見せた。それから彼は神妙な顔付きで、司季の持つ写真を一枚、引っ張り出した。  それは、ピンクのフィルム製剤が映った写真だった。 「…あの、治験の薬は、飲まない方がいいかも知れませんね。ただ、フィルムタイプと思われるので、飲む振りをするのも困難だとは思うのですが…。」  フィルムタイプの薬剤は舌に貼り付けると、瞬時に溶け、吸収される。飲んだ振りをするのは、液体タイプ同様か、それ以上に誤魔化し難い薬剤と言えるだろう。 「なるほど…。ご忠告、有難うございます。」 「体調に異常を感じた時は、直ぐに施設から逃げ出して下さい!」  犬童は薬を飲むことを想定しているようだった。 「ええ、何とかしますよ。…と、いうわけで、準備期間を五日程、頂いてもいいでしょうか?」  対して司季は、絶対に薬を飲むつもりはなかった。それには万全たる準備が必要だ。 「五日ですか?…ここには書いてありませんが、この手の応募用紙にはタイムリミットがありますので、なるべく早い方がいいかと思われます!」  余裕をもって提示した日数に、クレームが付けられた。 「それじゃあ、三日後なら、どうでしょうか?」  犬童は少し考えた後、答えを出した。 「三日後ですか?…それくらいなら、まあ、大丈夫でしょう。それでは、宜しくお願いします!」 「それでは、料金なんですが、いつものケースと違うので、追って連絡差し上げます。あと、準備による諸経費が掛かりそうなのですが、そちらも請求させて頂きます。問題ありませんか?」  司季は肝心な料金の話を持ち出した。 「諸経費…ですか?」 「うちの場合、移動費用込みになるのは、都内に限るんですよね。箱根ならなんとかなるかも知れませんが…。それとは別に、この潜入には特別な準備が必要となるのですが、そちらに関しては、請求させて頂こうかと思っています。」  犬童は腹を括った顔で頷いた。 「分かりました。…ご連絡、お待ちしております。」  犬童は眼鏡を外し、ケースに入れてバッグに仕舞うと、一礼して事務所を立ち去った。

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