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8 司季(Jul.29th at 17:30)
犬童を見送った後、司季は事件の裏取りを始めた。
ネット上のニュースではなく、所轄である警察のデータベースを検索する。
本来、司季にその権限はないのだが、所長である一真のIDとパスコードを拝借し、顔パスを決め込んだのだった。
――流石、元警察付きの探偵。…セキュリティレベル2までは、無許可で閲覧可能!
検索、閲覧した結果、犬童から聞いた内容にほぼ間違いは無かった。
手動運転による自動車事故で死亡した林も、睡眠薬を飲んで入浴し、溺死した印南も全て事故で片付けられており、これ以上の捜査は行われないようだ。
続いて、治験の行われている施設を探してみる。
事前に場所を突き止めておきたかった司季だったが、これは空振りに終わった。
夕方になり、空っぽの探偵事務所での、司季のお留守番が終わりに近付いていた頃、小暮が一人、帰ってきた。
角刈りを暫く放置したような髪型で、がっしりした体格に草臥れたスーツを着込んだ彼は、重みのある勢いで、開いているデスクの席に座った。
「お疲れ様です…。」
司季は所長室付近にある給茶機で、アイスコーヒーを淹れ、小暮に差し出した。
「有難う、司季君。」
小暮は野太い声で礼を言い、幸せそうな顔でコーヒーを口にした。
「小暮さんは、今日はもう上がりですか?」
司季は生意気な部分を隠して、小暮に問う。付き合いはエリサと変わらないくらいの年数なのだが、体育会系な小暮に、甘えたな処は見せられない司季だった。
「いや、ちょっと司季君の様子を見に、立ち寄ったんだよ。…今日、来客があったんだろう?」
鏑木探偵事務所ネットワークにより、全て筒抜けなので、特に報告しなくてもいいと思っていた司季に、小暮は報告を促した。
司季はエリサの席に着き、AI が作成した報告書を小暮のデバイスに送信する。
「大手製薬会社の治験に潜入捜査?司季君、どうして勝手に受けてしまったんだい?」
一通り目を通した小暮が、太い眉を顰めた。
「潜入って言っても、治験を普通に受けて報告すれば終わりなんで…。なんか本当に、アルバイト引き受けたみたいな感じですよ。…涼香さんの事もあるし、俺も何か役に立てたらなって思って、引き受けたんですけど…。」
小暮の顔色を窺いつつ、司季は最終的に闘病中の所長の妻の名を持ち出した。
それに対しては、低い唸り声を洩らした小暮だった。
「それで、同業者潰しの線は調べたかい?」
同業者潰しとは、時折、他の探偵事務所が有益な依頼先を、確保する為に行う裏工作で、現在、検察付きでも警察付きでもない鏑木探偵事務所には、無縁な話だと司季には思えた。
それを見透かすように、小暮が言葉を続ける。
「うちは今でも、そこそこ名前が通っているんだよ。」
「ああ、はい。…裏取りのログとか一式、共有サーバーにアップしますね。」
慌てて司季は、調べた内容を共有のサーバーにアップロードした。序でに、依頼人である犬童が持って来た、電子ペーパーや写真の類も小暮に手渡す。
「依頼人の身元は調べた?」
「ああ、はい。…カディーラ・ジャパンの社員で間違いなかったですし、提示されたIDに偽りは有りませんでした。」
「流石、鴨居さんの一番弟子だね。」
一瞬だけ、小暮の表情が緩んだが、電子ペーパーに視線を落とした瞬間、再び小暮の表情は曇った。
「これ、本当にカディーラの治験なんだろうか?…電話、掛けてみようかな。」
小暮がインプランタブル・デバイスで電話を掛ける仕草をしたので、司季はそれを制止した。
「それも確認済みです。受け答えはAIですよ。…電子ペーパーから申し込んだ者でないと、詳細は教えて貰えないみたいです。」
小暮は二、三度頷いた。
「なるほどね。産業スパイ対策なのかな?…それで、申し込みはしたのかい?」
「いえ、まだ、下準備が終わってないので…。」
「それは必要だね。今日は鴨居さん、遅くなりそうだし、直帰するって言ってたけど、必要なら連絡取ってみて。」
司季は大きく頷く。鴨居エリサはオリジナルの、探偵の七つ道具とやらを七つ以上、開発しているのだ。
これから出掛ける予定がある司季は、エリサには明日連絡を取ると決めていた。
「条件は…35歳以下で、βである事か…。うちで35歳以下は、司季君だけだね。」
小暮はまだ、治験の申し込み用紙を眺めている。
「あれ、鴨居の姐さんって、35以上でしたっけ?」
年齢の話が出て、ずっと年齢不詳だったエリサの年齢に、司季は喰い付いた。交換したIDの彼女の年齢は、非公開になっているのだ。
「うん。ここに入ったのは、俺の方が後なんだけど、年は俺の二つ下だったから、今、36かな?」
「へぇ、そうだったんですね。」
改めて、先輩二人の年齢を認識した司季だった。
小暮が見終わった申し込み用紙を、司季に返した。それを受け取った司季は、おずおずと問う。
「…所長、この依頼、反対しますかね?」
「まあ、するだろうね。あの人、司季君の事、凄く大事にしてるから。」
小暮は溜息混じりに即答した。
「小暮さんも反対ですか?」
「俺はね、この程度なら、実践デビューの練習版って感じで、いい気はするね。ネットに繋がらない環境みたいだし、滅多にない経験で、勉強になるんじゃないかな。」
「じゃあ、小暮さんの許可が出たって事で…。」
「俺、怒られ役になっちゃうな…。」
小暮は困ったように笑った。
司季は質問を変える。
「…小暮さんは、自分がαだって人に、会った事はありますか?」
小暮の小粒な瞳が少しだけ見開かれたが、直ぐに戻った。
「ないよ。ないけど、警視庁の上にいる人達は、そうなんだろうって噂だよ。でも、そういう認識で、人と接したりしないから、誰がαかなんて、推測したこともないかな。」
αとは、特別な性因子を指す名称で、全てにおいて優れた遺伝子を持つ者が、その因子を保有している可能性が高いという。
現在、8千万人台へと減少した日本の人口のうち、その5%がαであるという噂だが、彼らαが、特にβに対して自己申告する事は少なく、性別の名称としての認知度は、薄れて来つつあった。
「さっき、流れでαについても調べてたんですけど、優秀な遺伝子ってだけでなく、繁殖力も凄いらしいですね。だから、二人以上の子供がいると、αの可能性である事が高いらしいですけど…。そう言えば、小暮さんとこって、お子さん、二人じゃなかったですか?」
「いや、うちはね、連れ子同士の再婚だから、該当しないよ。…俺と今の妻の間に、子供はいないんだ。」
β同士の結婚で、一人目は妊娠、出産出来ても、二人目不妊(続発性不妊)になるというのは、よく聞く話だ。
思わず、小暮のプライベートに踏み込んでしまい、司季は慌てて謝る。
「あの、なんか…すみません。」
「え?いや、別に…。俺は今の状態で、十分幸せだからね。」
小暮は顔を赤らめて笑った後、アイスコーヒーを全て飲み干した。ゆっくりとした動作で立ち上がると、空になった紙コップをダストボックスへ放り込む。
「…また、これから、所長と一緒に仕事ですか?」
司季の問に、小暮は頷く。
「そうだよ。所長、今日は帰って来れないから、俺の方から報告しておくね。ああ、怖いな…。」
幅広の肩を一瞬だけ竦めると、小暮は事務所を出て行った。
それを見送った後、司季は表情を無にし、義眼デバイスで電話を掛け始めた。
「…鴻嶋 さん、ちょっと相談があるんだけど、夜、そっちに行ってもいい?」
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