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18 司季(Aug.7th)

 司季が治験施設へ来て、一週間目の21時過ぎ。  彼はストイックな治験者達、数人に混じり、ジムのランニングマシンで汗を流していた。  ここのジムは、VRとARが融合した空間となっている。  今、目に見えている数々のトレーニングマシンは本物だが、マンツーマンの指導をしてくれるトレーナーは、AIが作り出したビジョンだった。  司季は緊急逃走事態が起こる可能性を考えて、体力増強のプログラムを選んで行っていた。  走りながら、司季は今後の捜査方針をどうするか、考えていた。  職員達は研究員と面識を持たず、女性の治験者との接触も無いという事だった。  この事から、捜査依頼である、研究員と女性の死亡事件については、今後も捜査の進展は期待できそうになかった。  分析器に掛けてみた治験薬も、日を変えて二、三度、調べ直してみたが、その成分は同じで、使用目的が不明と分析結果が出てしまった。この調査についても、これ以上の進展はないだろうと思う。  しかし、治験者達の状態の変化を見れば、薬がもたらす効能、又は副作用に関しては、何か掴めそうだった。他の治験者を犠牲にしているようで申し訳ないが、薬の調査を進めるにあたっては、この方法しかないと言える。 ――今、分かってる事は、…治験薬は服用後、直ぐに食欲亢進の副作用が現れるって事。それと、常用すると、体臭の変化が起こり、人によっては、催淫効果に似た副作用もあるって事だ。  治験者の体臭の変化については、村崎を始め、ここ最近、数人の治験者からも芳香を感じるようになっていた。その所為か嗅覚が麻痺し、誰から匂っているのか、残り香なのかすら、分からなくなる事もある程だった。  体臭はフェロモンとも言えそうだが、通常、ここまではっきりと感じる事はない。だが確実に、あの治験薬が体臭に変化をもたらしているのだろう、と司季は推定している。 ――今後の調査は、治験者達を調べるしかなさそうだな…。  漠然とだが、司季は治験者達に対して、幾つか共通点がありそうだと考えていた。 ――全員が治験の申し込み用紙を、知人に手渡されてたんだよな。…まあ、これは、この治験がネットで募集されてないからなんだけど。それじゃ、その知人達は、何処で申し込み用紙を手に入れたんだ?もしかして、共通点があるのは、その知人達か…?  5kmを走り終えた処で、AIの男性トレーナーがストレッチを勧めてきた。それが一通り終わると、このプログラムは終了する。司季は呼吸を整えながら、ストレッチ運動を始めた。 ――今日は明砂、来ないな。  司季はふと、高校生の高峰明砂の事を思い出し、気に掛けた。明砂は一昨日、司季を探偵だと指摘し、強引に助手になると言ってきたのだった。  探偵ごっこの延長線上として使ってみたら、彼は昨日、司季の要望通りに黒縁眼鏡の大学生、琴平(ことひら)(るい)の情報を持って来てくれた。それに気を良くした司季は、明砂と懇意にすることを決めたのだった。因みに、昨日から「明砂」と、名前呼びをしている。 ――そう言えば、昨日、明砂と話してて、ひとつの仮説が持ち上がったんだよな…。  明砂が機能向上の薬について、人工的にαを作り出す為のものではないかと言い、薬如きで、それはないと判断した司季は、一時的にαレベルに引き上げる薬なら、作れるのではないかと答えたのだった。  そして今、「α」というキーワードから、別の閃きが浮かび上がった。 ――村崎と明砂、そして眼鏡君。あと、葛西に申し込み用紙を渡したのが、α性だったんだよな。…αって存在が、こんなに頻繁に出て来るなんて、ちょっと違和感がある。…ここを紹介した全員が、αって可能性が出てきたな。  有り得ないと思いつつも、司季の中で複数のαの存在が確立していく。 ――土橋は大手企業勤務の上司、宇佐美は叔父の友人である、カディーラの研究員。…他にもアスリートのコーチだったり、大病院の医者もいた。これは、もう一度、確認した方がいいな…。  司季は明日、治験者達にαの存在を確認してみる事を決めた。序でに、治験の申し込み用紙の出処を探れたらいいなと、淡い期待を抱いてみる。  ストレッチを終えると、何処かソワソワしている明砂が、近くで待っていた。彼の手には、着替えとタオルが抱えられている。その姿に、司季は秘かに安堵を覚える。 「お疲れ様です!…これから一緒に、お風呂に行きませんか?」 「大浴場の方に?」  明砂は頷く。シャワーで済ませようと思っていた司季だったが、快く応じてみた。  司季も、ロッカーから着替えとタオルを一式取り出し、明砂と並んで大浴場へ向かう。  ジムから大浴場は近い。通路を挟んだ数m先の扉を開ければ、そこは大浴場の広い脱衣室だ。巨大な温泉施設のような雰囲気は、ここから始まっている。  入れ違いのように、二人の利用者が出て行った脱衣室内は、司季と明砂の二人だけとなった。 「真夏でも、明砂は真っ白なんだな。」  空いているロッカーの前で脱衣を始めると、司季は明砂のシミひとつ無い肌に見惚れた。 「あんまり地上を歩かないので…。」 「なるほど…。」  都内の地下開発は日々、進んでいる。大きな建物には地下都市へ通じる地下玄関があり、目的地にも同様の地下玄関があれば、地下鉄を利用し、地上へ出ることなく移動できるのだ。それは勿論、限られた人間の特権でもある。 「明砂は今の環境に慣れた?…ネットに繋がらないと、死にそうになるだろう?」  司季は義眼デバイスの酷使により、度々、脳細胞が死に掛けるような目にあっているのだが、明砂には別の意味で質問してみた。 「確かにSNSでのコミュニケーションが取れないのは、少し不安になりましたけど、それ以外の娯楽的なものは充実してますし、何より食事が美味しいです!」  この施設の治験者の隔離は、異常なくらいに徹底している。  自身のデバイスが使用できない環境は、不安と不満が溢れる状況と言えたが、それらの声は余り聞こえてこなかった。図書室や談話室には、施設独自のネットワーク回線があり、検閲されながらも、データの受信は出来る為、妥協できているのだろう。  そして、一番、多く聞こえてくるのは、食事への称賛だった。  噂では三ツ星レストランのメニューや、有名な料亭のメニューが再現されているらしく、食に興味を示さない方である司季も、毎回の食事を、確かに美味しいと感じていた。 「食事ね…。太ったりしてない?」  司季は全体的に薄い、明砂の脇腹を抓ってみた。 「ひゃっ!…太ってません!脇腹は触らない方向でお願いします!」 「了解。」  司季は楽しそうに笑った。  他人に対して、基本的に営業スマイルしか見せない司季だったが、明砂の前では、自然な笑みが零れてしまう。見た目通りに純粋な存在の明砂に、知らぬ間に心を溶かされてしまったようだった。  二人は、南国の風景がパノラマビューの窓に広がる大浴場へ入った。勿論、それは窓を模した画面に映し出された映像で、本物の風景ではない。このフロアは窓のない地下室なのだ。  落ち着いた照明の下、艶やかな大理石の上を歩き、二人は洗い場に着いた。  離れた場所のジャグジーで、はしゃぐ数人の利用者の声が響いている。  浴槽は幾つかあり、曲線で繰り抜かれた池のような形で、不規則に並んでいた。それらは全て、設定温度が違っている。  一通り洗い終えた二人は、利用者のない、一番低い温度の浴槽に入った。 「都積さん、今日も繋がって…いいですか?」 「いいよ。何か新情報でも掴んだかな?」  司季は軽い返事で、繋がる為のヘアピン型プラグコードを取り出した。  インプランタブル・デバイス第三世代の明砂には、首の後ろにプラグが挿し込めるジャックがある。そこにコードを挿し込めば、司季のデバイスの一部を許可し、共有させる事が出来るのだ。  昨日、明砂を協力者と認めた司季は、有線でデバイスを共有できる事を教え、依頼内容を伏せた状態で、調査中の治験者リストを見せていた。 「昨日の補足と、少しの新情報です。…役に立つかは分かりませんけど。」 「じゃあ、明砂が書き込んでみて。」  司季は治験者リストと、キーボードを立ち上げ、明砂に書き込む権限を与えた。 「累君の紹介者の人の、フルネームを聞き出しました。…畠山(はたけやま)和臣(かずおみ)です。」  書き込んだ後、明砂は男女別にしておいた写真データの中から、金髪美少女をピックアップした。 「…それと、この子は男の子です。なので、男子側に移動します。」 「え?そうなの?…この子、一緒じゃなかったし、てっきり女の子だと思ってたよ。」 「…続いて、役に立つかは分かりませんが、出身地…というか、何処から来たのかが聞けたんですけど、書いておきますか?」 「うん。一応、書いておいて貰おうかな。」  明砂は説明を交えながら、記入していく。 「昨日、たまたま僕のいるcグループと、bグループの人達の唾液検査時の待機場所が、談話室になったんですよ。その時にbグループの茅森(かやもり)さんが、北海道から来たって話をして、そこから、実は福岡から来たとか、香川から来たとかで盛り上がったので、一応、記憶して来ました。」  東京近郊からの参加者が殆どだと思い込んでいたので、半数近くが意外にも他県からの参加者で、司季は驚いた。 「確かに募集要項には、近郊の者に限るなんて事は書かれてなかったけど…。それにしたって、北海道からとか、…旅費は自腹なのか?」 「近郊以外の人は、迎えがあったらしいです。」 「何、その至れり尽くせり感…。なんで、そんな、金の掛かる募集の掛け方してるんだろうな。」  司季は再度、確認すべく、申し込み用紙のコピーを表示させてみた。すると、明砂が声を上げた。 「あ、これ!申し込みが受理されたら、白紙になっちゃったんですよね。…僕も書き込む前に、コピーしておけば良かったな。」 「自動的に消滅するなんて、スパイへの指令書みたいだったよな。…コピーは普通には無理だったよ。複雑なプロテクトが掛けてあったからね。」 「解除したんですか?」 「その道のプロフェッショナルな人がね…。」  用紙のコピーを開いた序でに、司季はダメ元で明砂に問う。 「この申し込み用紙は、君が見たのと全く同じ?何か違う箇所とかない?」 「見た処、同じみたいですけど…。実は、じっくりとは読んでなくて…。」 ――だよね…。  司季が軽く頷いた瞬間、明砂は何かに気付いた素振りを見せた。 「これが違います!ここの、数字の桁?…が、僕のは五桁でした!」  明砂が指し示す数字は、用紙1ページ目の左下に、小さく記載された数字だった。この用紙の数字は"No.8977"と四桁の数字が記載されている。 「この数字?」 「はい!…僕、こういう書類関係で、肝心の内容は、あまり頭に入って来ないけど、こういうのは目に着いちゃうんですよね。」  褒めていいのか、司季は戸惑いつつ、一応、感心してみせる。 「それは…凄いね。…この数字、発行部数かな?」 「それだと普通ですね。」  探偵なら、もっと捻らないと、と言ったニュアンスで明砂に返された。 「じゃあ、明砂は何だと思う?」 「治験者を管理するナンバー…とか?」 「なるほど、管理ナンバーか。」  司季は別の管理ナンバーの可能性を考えてみる。 ――治験者じゃなくて、紹介者の管理ナンバーって場合も考えられないか?紹介者には何かメリットが得られるって事で…。報酬?いや、紹介者が全員αと仮定すると、報酬目的は違う気がする。  司季は考えを発展させていく。 ――人口減少中のαが、αを増やそうとしているとしたら?…それに導かれるのは、αの…何らかの組織があるかも知れないって事だ。  司季は明砂が昨日、数人のαを知っていると言った事を思い出した。何か知らないか、淡い期待を寄せる。 「明砂はさ、αしか入れない組織の存在とか、聞いた事ない?」  明砂は首を傾げ、記憶を辿っているような素振りを見せた。しかし、直ぐに顔を横に振る。 「…ないですね。少なくとも、僕の周りのαは、特殊な組織に入ったりとかはしてないと思います。」 「そっか…。」 「この治験、αが絡んでると思ってます?」 「…うん。昨日は、薬なんかでαにはなれないって言ったけど、今はその可能性も全くないわけじゃないって、思えてきたよ。」  司季がそう言うと、明砂は嬉しそうな笑顔を見せた。 「今日はここまで。…のぼせない内に出よう。」  司季はそう言うと、明砂と繋がるプラグコードを回収した。

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