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20 司季(Aug.14th)

 治験開始から二週間目を迎え、司季はこの施設を抜け出すことを考えていた。  周りの治験者達は一人、二人と姿を消し、新しい治験者が数人訪れ、少しずつ入れ代わっていっている。  それを見ると、そろそろ自分がいなくなっても、周囲に疑問は抱かれないのではないかと思うのだった。  司季がここを出たいと思う理由は、それだけではなかった。  ここ最近、薬を飲んでいない筈の司季の体に、僅かだが異変が起こっているのだ。日毎、熱を帯びたようになり、劣情に支配されてしまう。  司季はそれを、周りの治験者達が発している発情フェロモンの所為だと考えていた。 ――これ以上、ここに居たらヤバい気がする。誰かを押し倒してしまいそうだ…!  勢い余って事に及んだ場合、この施設を強制退出という形になるだろうか、と脳裏を過る。しかし、なるべく他の治験者を傷付けたくないので、それは止むを得ない時の為に取っておくと決めた。  司季はロビーにある、このフロアの見取り図を見つめた。  施設内の部屋を、ぐるりと囲むように通路が回っている。この回廊は未知の世界だ。一度監視カメラで覗いてみようとしたら、回廊側の壁は透過できない仕様になっていた。  脱出ルートとしての狙い目は、食堂横にある貯蔵室だった。食材の運搬の為、貯蔵室にはエレベーター直通の扉があるのだ。  勿論、貯蔵室への扉は、治験者には開けられないようになっている。なので、そこは職員を眠らせ、彼らを鍵代わりにすればいいと計画する。  貯蔵室前に行き、何気なくその扉に触れた瞬間、司季は最年長職員の盛澤に呼び止められた。 「都積さん、今日、16時にカウンセリング室に来て下さい。」  それだけ告げると、彼は踵を返して行ってしまった。  司季は肩を竦める。 ――結果が出てないって、言われるのかな?…それなら、好都合だ。  司季は退所出来ないかを、相談してみる事にした。事は平和裏に済ませた方がいい。  呼び出しを受けてから2時間後の16時。司季は言われた通りに、カウンセリング室に向かった。  カウンセリング室に入るなり、盛澤に出迎えられ、奥にある医務室に通される。  初めて入ったそこは意外と広く、診察室にプラスして、医療用ベッドが二台と、奥に大きな薬剤棚もあった。  盛澤がデスク付きの椅子に座り、その近くのスツールに腰掛けるよう、司季を促す。それに司季が従うと、彼はウォッチ・デバイスを操作し始めた。 「…薬はちゃんと飲まれていますか?」  盛澤が司季が予想した通りの質問をした。 「飲んでますよ。だって、フィルム製剤ですよ!飲んだ振りなんて、絶対不可能でしょう?」 「過去、産業スパイによる、すり替えが発生した件もありましたので…。」 「俺はスパイじゃありませんよ。…薬の効果って、個人差があるものでしょう?それを調べる為の治験ですよね?」 「…そうですね。少し検査をしても宜しいですか?」 「どうぞ…。」  ここまでの遣り取りの流れは、司季が想定したものだった。その先が唾液検査なのか、血液検査なのかを緊張して見守る。  盛澤は立ち上がると、採血用の台を司季の前に持って来た。 「腕をこの台の上に置いて下さい。」 ――採血かよ…!  司季は一瞬怯んだが、素直に左腕を台の上に置く。すると一瞬でベルトに固定されてしまった。  その隙に盛澤は、医療器具が並べられたワゴンを引き寄せると、金属製の注射器を手に取った。その注射器に針は無く、代わりに極小のノズルが付いている。  盛澤が注射器を司季の上に掲げると、薬剤がジェット噴射されたのが分かった。 「今のは…?」  薬剤が体内に吸収されていくのを感じた司季は、顔色を悪くする。固定された腕は、全く動かせない。  盛澤は何も答えずに、今度は針付きの注射器を手に取った。ゆっくりとしたモーションで、その針が司季の静脈に突き立てられる。  司季は針が好きではない。しかし目を逸らす訳にはいかなかった。  この注射器も金属製で、中身は分からなかったが、採血ではなく、何かを血管内に送り込まれたのを感じた。 「血液検査じゃないんですか…?」 「ナノマシンによる検査ですよ。」  無表情のまま、盛澤が答えてくれた。 「排出は…?」 「終わったら勝手に出て行きますので、安心して下さい。」  盛澤が以上で終わりだと、出口を示唆した。そこで司季は、退所の話を切り出そうと試みる。 「あの、俺は薬の効きが悪いんですよね?…だったら、もう、これ以上のデータは取れないですよね?」 「いいえ。今後、あなたへの投薬はジェット注射器で行いますので、改めてデータを取らせて頂きます。」  盛澤は冷たく言い放つと、司季に退室を促した。 ――やっぱり最初のは、薬だったのか!クソッ!この状況を想定しておくべきだった…!  投薬を受けた実感からか、急に体に異変を感じ始めた。やたらと喉が渇き、食堂へ向かうと、ウォーターサーバーの水を求めた。 ――水…!そうだ、水を大量に飲めば、早目に排出できるかも知れない。  司季は浴びるほどに水を飲み、少し落ち着いた後、宿泊スペースの自室に戻った。ベッドに横たわり、深呼吸を繰り返す。 ――落ち着け!…1、2回の投薬で、何も変わる筈はないんだ。  そう言い聞かせ、落ち着きを取り戻して来た頃、司季の義眼デバイス内のアプリケーションのひとつが、強制的に立ち上がった。 ――何…!?遠隔操作…?  司季は反射的に身を起こした。 「…司季ちゃ…声…聞こえる?」  ノイズに混じり、聞き覚えのある声が聞こえた。鏑木探偵事務所のサイバー担当をしている、エリサの声だった。 「え?…エリサ!?」 「呼び捨て!?…って、今はそれどころじゃないから許すけど、ハッキングして繋いでみた。…多分、長くは持たない。」  ノイズが治まり、幾らか声が聞き取り易くなった。 「うん、こっちもオーバーヒートになる可能性あるから、手短かに頼む。」  ピンチの時の仲間の出現に、縋りつきたくなった司季だったが、冷静な対応を心掛ける。 「分かった。今、私と所長は、司季ちゃんの近くに来てる筈なの。ドローンのプロポの電源を入れてみて。」  司季は立ち上がると、ワードローブに閉まっておいた黒のショルダーバッグから、小さなスティックタイプの送信機(プロポ)を取り出し、電源を入れた。 「入れたよ。」 「確認できた。」  司季はそれに因んで、施設に向かう初日、途中で通信が切れてしまったドローンの行方を確認する。 「ドローン、帰って来た?…ここって、狛江市のどっかなんだろ?」 「ドローンは帰って来てないし、狛江市でもない。…恐らくそこは海底。今、私達がいる場所は臨海道路上で、一番近い場所は…羽田かな。」  エリサの答えは、司季が全く想像していないものだった。 「…嘘だろ?」 「ドローンは飛ばした時点で、コントロールを奪われていたのかも。つまり、あんたの潜入はバレてる可能性あり。…自力で脱出できそう?」 「…海底なんだろ?無理だよ。」  司季は弱気な声を洩らした。そんな彼に、頼もしい言葉が返ってくる。 「分かった。…手助けしてあげる。いつがいい?」 「日付変わるけど、深夜1時ってどう?」  今直ぐと言いたかった司季だったが、人目につかない時間を選んだ。 「25時ね。了解!それじゃ、その時にプロポの電源を入れ…」  そこで急に通信が途絶えた。  言いたい事は伝えられたし、丁度、義眼デバイスも熱を持ち始めたので、司季はそれでよしとする。 ――あと1回、投薬を受ける事になると思うけど、それで終わりだ。  その日の夕食前の投薬を報せる為に、妖精が壁に映し出された。小さな羽を忙しなく動かし、妖精が告げる。 「間もなく投薬のお時間ですが、あなたは16時に投薬済みとなっていますので、この時間の投薬はありません。」  それを聞いた司季は、小さくガッツポーズをした。

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