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21 司季(Aug.15th)

 時刻は0時を回り、日付が8月15日に変わった。  司季は宿泊スペースの自室で、逃走の準備を行っていた。  持参していた両面テープを、ロングTシャツで隠れるギリギリの位置を確認し、右の太腿に三ヶ所、左の太腿に二ヶ所貼り付けた。そこに、5本のペン型麻酔剤を貼り付けていく。この麻酔剤は、武器として使うつもりだった。  その上にロングTシャツを下ろしてみたが、ペンがステンレス素材その物の色なので、若干、透けてしまっている。 ――素早く行動すれば、きっと、なんとかなる…。  妥協して、次の作業に移る。  今、着ているTシャツの裾を捲ると、ドローンの送信機を両面テープで固定した。これも送信機が黒い為、目線が行くと、問われそうなレベルとなった。  そうこうしているうちに15分が過ぎた。  司季はヘアスプレーの缶を、ドリンクボトルの中に隠し持ち、部屋を出た。  0時を過ぎ、控え目な照明に切り替わった中、宿泊スペースの通路は静まり返っている。  ロビーへ出ると、幾分、明るさが落とされており、人の気配は感じられなった。たまに夜更かし組がいたりする事もあるのだが、今日はいないようだった。  司季は貯蔵室前へと移動する。  この付近で体調の悪い振りをして職員を呼び出し、その職員に麻酔剤を打つつもりだった。その後は、職員の認証コードを利用して貯蔵室の中へ入り、そこからエレベーターへ乗って上へ向かう計画だ。  演技を開始しようとしたその時、司季は人の気配を感じて振り返った。  cグループの大学生の宇佐美だった。少し眠そうな顔でロビーを通過し、こちらへ歩いてくる。 「宇佐美君、夜食でも食べに行くの…?」 「ああ、都積さん。それは流石に…。ちょっと喉が渇いたから、何か飲もうと思って…。」  司季の問に、宇佐美は人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。 「水分、欲しくなるよね。…それって、薬の副作用だと思う?」 「どうなんでしょう…?」  司季は職員を呼び出すのに、宇佐美を利用する事を思い着いた。 「宇佐美君から、凄く甘い匂いがする…。」 「それを言うなら、都積さんですよ…。」  司季は宇佐美の唇をいきなり奪うと、彼の口腔内を激しく舌で探った。 「ん…!つづ…!やめ…。」  宇佐美は弱々しく抵抗し、次第に力を抜いていった。  そこで、予定調和よろしく、妖精のホログラムが警告を発し始める。 「お二人がしているのは、禁止行為です。速やかに、離れて下さい。繰り返します。――」  キスから解放された宇佐美は、初めての状況に呆然としたまま、そのホログラムを見つめていた。  そこへ濃紺の制服の職員が現れた。時間的に宿直担当の職員で、それは盛澤だった。 「また、あなたですか。」  盛澤の登場に、内心、舌打ちし、それはこっちの台詞でもあると思った司季だったが、沈んだ表情を浮かべて見せた。 「すみません、俺が悪いんです。…強制退所になったりしますか?」 「いいえ、そんな事は致しませんよ。」 「このまま、行為を続けたとしても…?」  司季が宇佐美の肩を抱こうとすると、はっとした宇佐美に身を躱されてしまった。 「あの、僕、失礼します!」  宇佐美が逃げるように、談話室の中へ入って行った。  それを見送った盛澤のレンズのような視線が、司季を観察しないように、慌てて話し掛ける。 「すみませんが、少し話を聞いてもらってもいいですか?」  司季の方が背が高い為、盛澤の視線は上を向く。Tシャツの下に隠し持ったアイテムには、まだ気付いていないようだ。 「明日では駄目ですか?」 「5分だけでいいので、今、お願いします。」 「分かりました。それでは、ロビーでお話しましょうか。」  盛澤が後ろを振り向いた瞬間、司季はペン型の麻酔剤を一本取り出し、そのペン先を彼の頸動脈付近に宛て、親指でペンの頭を押した。  ペン先が伸びてちくりと刺さり、中身が注入されると、盛澤はあっという間に意識を手放した。その瞬間、司季は不安になる。 ――これ、麻酔剤って言ってたけど、呼吸器は大丈夫なんだっけ?  盛澤の口元に手を翳すと、自発呼吸が確認でき、司季はひと先ず安心した。  談話室へ逃げ込んだ宇佐美の存在を気にしつつ、司季は盛澤からウォッチ・デバイスを奪った。このデバイスがキーとなってくれれば楽なのに、と思いつつ、貯蔵室の扉に手を掛けたが、扉はびくりとも動かなかった。 ――開かない!…ウォッチじゃダメなのか?職員のインプラントに反応?それとも顔認証?  司季は盛澤を抱え上げ、扉に近付けてみたが、扉は無反応だった。  計画変更を余儀なくされる。 ――ならば回廊に出るしかないか…。  一番危険なルートではあるが、迷っている暇はない。  司季はドリンクボトルに隠していた、特殊塗料のヘアスプレーを素早く使い、髪の色を変えた。これにより、AI搭載型監視カメラの、物体検出ニューラルネットワークが阻害され、司季は認識されなくなる。  ヘアスプレー缶をボトルに戻し、一旦、ロビーにあるゴミ箱に捨てて来ると、司季は再び、意識のない盛澤の上半身を抱え上げた。 ――こいつ、意外と重い!…本当にアンドロイドなんじゃないか?  司季はロビーの方まで盛澤を引き摺って行き、カウンセリング室の中へ入った。ここにも回廊へ続く扉があり、盛澤はこの扉を通ってやって来たのだと、司季は確信していた。  前に口の軽い職員から聞いた話を、司季は思い出す。 『…回廊がぐるっとあったでしょ?それを出た処に、私達の休憩室があるんですよ。』  回廊の外の情報は、ロビーの見取り図には描かれていなかった。なので、想像するしかないが、職員専用の休憩室があるのなら、職員専用の出入口もあるのではないかという考えに至った。  盛澤を床に放置し、彼のウォッチ・デバイスを装着した司季は、デバイス内にマップがないか探してみた。しかし残念ながら、それは見当たらなかった。 ――これで、通信出来そうだな。…いや、見張られてる可能性が高いし、使わない方がいいだろう。  司季は傍受を懸念して、通信デバイスとしての機能を使用しない事にした。  覚悟を決め、司季は回廊へ続く扉へと近付く。  治験者タグでは開かなかったそれは、自動扉のように真ん中から二つに分かれ、難なく開いていった。  回廊へ一歩出ると、そこは白から一転して、ダークグリーンの世界が広がっていた。  濃い緑色の壁や床に、全身白い衣類の司季は、異様なほどに目立ってしまっている。それでも緊急警報が鳴らなのは、監視がAIのみで行われているからなのだろう。  司季は取り敢えず、胸を撫で下ろすと、進むべき道を探した。  通路は左右に伸びており、扉が幾つか見受けられる。6m程先の正面には、エレベーターとみられる扉があった。 ――こんな直ぐ近くにエレベーターとか、ラッキーだけど、乗っても大丈夫か…?  司季はその扉に近付き、触れてみると、エレベーターの動作音が聞こえた。 ――嘘、俺が呼んだ…?  逃げる事も考えたが、扉は間もなく開きそうだった。  扉から誰かが出て来ることを想定して、司季は麻酔剤を一本取り出し、握りしめて待つ。  エレベーターの扉がゆっくりと開いた。  一人の男の存在を確認した瞬間、司季は麻酔剤を掲げた。 「わぁ!殺さないで下さい!!…私はカディーラの社員です!」  大柄に見えたスーツの男性は、一瞬で座り込み、小さく怯えたようになった。その姿に見覚えのあった司季は、意表を突かれる。 「犬童さん!?…どうして、あなたがここに?」  司季がエレベーターに乗り込み、名前を呼ぶと、犬童も驚いた顔をして見つめてきた。  犬童はこの捜査の依頼人で、彼の登場は司季の頭を多少、混乱させた。 「つ、都積さん!?…あぁ、良かった!都積さんに会えた…。他の探偵さんと一緒に、迎えに来たんですよ!…って、その髪の色、どうされたんですか?なんか、…斬新です。」  司季を認識して安心した犬童は、勢いよく立ち上がって(まく)し立てた。 「これは潜入用です。…他の探偵って、所長と女性ですか?」  司季は髪が何色に見えてるかは、訊かない事にした。 「そうです。ここへは、カディーラの社員の私が、誤魔化しがきくのではないかと思い、一人で来てみました。」 「無茶させたましたね…。」  そう言いながらも司季は、犬童の協力を有難く思った。 「いいえ、何か緊急事態っぽかったので…。」  犬童は言いながら、エレベーター内にあるボタンを押した。 「あれ?エレベーターが動かない。」  犬童が数回、強めにボタンを押すが、エレベーターは扉を閉めることすらしない。司季もボタンを押してみたが、やはり無反応だった。 「どうします?」  司季が問うと、犬童は胸ポケットから眼鏡タイプのデバイスを取り出し、それを掛けた。そして操作する動作を見せると、司季の手を引き、エレベーターを出た。 「仕方ない、こっちです。…事前に、ここの見取り図を入手して来たんですよ!」 ――それ、依頼する前に入手しとけよ…。  司季は喉まで出掛かった言葉を呑み込み、犬童に着いて行くことにした。  道中、犬童に捜査結果を問われる。 「…ここへ来て、何か分かられましたか?」  迷いながらも、司季は正直に話すことにした。 「正式な報告書は後でお渡ししますが、二件の死亡事故に関しては、何も分かりませんでした。…ただ、薬の成分の解析と、治験参加者の情報は入手出来ましたので、出来れば、今後も調査を続けられればと思っています。」 「そうですか。…有難うございます。」  犬童は何かを噛み締めたような顔をしたが、感謝の意を表した。  左に角を曲がり、通路突き当りの扉を犬童が指し示す。犬童が近付いても開かない扉は、職員用デバイスを持つ司季が近付くと、静かに開いた。  そこは通路内に設けられたサーバールームのようで、凍えるほどの温度設定になっていた。  身震いしながら、そこを抜け、更に進んだ先の扉の前で、漸く犬童が立ち止まった。 「この扉の先に、階段があります。」  職員用デバイスを持った自分の出番だと思い、司季は扉の認証機器に向けてデバイスを翳した。しかし、扉は無反応で開かない。 「ダメだ、反応しない!」 「そんな!」  諦めきれない、といった表情の犬童が司季の腕を掴み、再度、デバイスを翳すと、扉が嘘のように開いた。 「…あれ?…開きましたよ。」  ほっとした二人だったが、目の前の光景に足を止める。扉が開いたと同時に電気が灯いたそこに階段は無く、目前に広がるのは、誰かの私室のような内装の部屋だった。 「え?階段は…?」 「おかしいな…。ここは…どうやら、所長室のようですね。…丁度いい。誰もいないし、見て行きましょう。」  犬童はずかずかと中へ入って行く。司季とは違い、監視カメラに認識される筈なので、司季は慌てて犬童を止める。 「追求したいのは分かりますけど、危険じゃないですか?」 「でも、警報鳴ってないようですし、警備員も来る気配は、今の処ありませんよ。」  仕方なく司季も中へ入り、黒塗りのデスクに置かれた巨大な薄型モニターに近付いてみた。モニターに触れると、複雑な化学構造式が幾つも書かれた文書が、複数の画面で立ち上がっているのが映し出された。 ――これって治験薬の…?  司季がデータを持ち出せないか、画策し始めたそのタイミングで、犬童に呼ばれる。 「都積さん、こっちへ来て下さい!」  犬童は壁の向こうにいるようだった。司季はそちらへ駆け付ける。  そこは寝室になっており、ベッド際の壁と天井の光景を見た司季は、目を疑った。  そこには、キッズモデルをしていた6歳の頃の司季の写真が、大きく引き伸ばされ、埋め尽くすように何枚も貼られていた。 「これは…。」 「6歳の司季君、可愛いですよね。…私は彼の大ファンなんですよ。」  司季の背後に一歩、下がった犬童が、耳元で囁くように言い、背後から司季を強く抱き締めた。  その右手に、シルバーに輝くピストルが握られているのが、一瞬だけ見えた。 「おまえ…!」  犬童に銃口を顳顬(こめかみ)に宛がわれ、司季は身を固くする。 「申し遅れましたが、私がこの部屋の(あるじ)で、所長の犬童です。」  司季の耳元で名乗りながら、犬童は銃口を首筋まで伝い下ろすと、そこで引き金を引いた。  プシュッという音と共に、司季の首筋に薬剤が注入される。それはピストル型の注射器だった。  一瞬で司季の体は、感覚を失う。 ――おまえが所長だって…!?  司季は力なくベッドに崩れ落ちると、視線の先に冷笑する犬童を捉え、それから意識を失った。

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