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22 司季(Aug.18th)

 ほんの少しの寒気と共に、司季は目を覚ました。  そこは医療ドームと呼ばれる、ガラスのカプセルの中で、司季の体は磁力に引き寄せられたかのように、動かせなくなっていた。  ガラス越しに自分を見下ろす、犬童の瞳を捉えた。最初に会った時の、挙動不審なサラリーマンの雰囲気は全くなく、落ち着いた大人の表情を湛えている。 「おはよう、司季君。…気分はどうかな?」  カプセル内に犬童の声が間近に届いた。 「ここは…?」  状況を確認しようと司季が首を動すと、横にもう一台、医療ドームがあり、そこにも裸体の誰かが横になっているのが見えた。それをよく見ようとして、首の後ろにプラグが接続されている感覚に気付く。 「ここは処置室。…君は三日間、眠り続けていたんだよ。」 「三日間!?」  司季は意識を失う前の記憶を蘇らせた。  扉の開閉も、エレベーターが動かなくなった事も、全て犬童が仕組んだのだと思い当たる。  愕然としながらも、司季は犬童を睨み付けた。 「…俺に何かしたのか?」 「君は発熱して、昏睡状態に陥った。だから、その間に衣類を脱がせ、医療ドームに入れて、ミスト洗浄を行った。髪の特殊な塗料が落ちたから、落ち着いた雰囲気になったね。…それから、君がいつ目覚めるか分からなかったから、栄養補給をしつつ、排泄用のカテーテルを尿道と肛門に挿入した。…今は腸内も膀胱も空っぽみたいだし、これは両方共、抜いて上げてもいいかな。」  犬童が医療ドームのパネルを操作すると、司季の下半身に僅かな違和感が走った。 「…序でに、ここから出せよ、クソ研究員!」 「私は所長だと言った筈だけど…。まあ、いいか。…理解力は十分、あるみたいだね。」  司季は義眼デバイスを秘かに起動させ、助かる方法を模索した。そこへ見透かすような犬童の言葉が届く。 「…電波は探さない方がいい。今、ここはオフラインだ。それと、君を探しに、この付近まで辿り着いた、優秀な鏑木探偵事務所の方達には、お帰り頂いた。…このドローンは返しそびれたけどね。」  犬童が司季の目の前に、1cm程の小型ドローンをちらつかせて見せた。それは司季がルートを調べる為に放ったもので、早々に奪われていた事を示唆していた。 「俺をこれからどうするつもりだ?」  司季は一旦、冷静になると、音声データの記録を開始した。ただの悪足掻きではなく、まだ、脱出の可能性を諦めていないのだ。意地でも、犬童の企みを公けにしてやろうと思う。 「いい質問だね。…私はこれから、Ωになった君を…私の(つがい)にするつもりなんだ。」  それを聞いた司季は、固唾を呑む。  仮説が当たっていた事に驚き、とんでもない場所に捕らえられている事を実感した。 ――こいつ、αだったのか…。でも俺はΩなんかには、絶対ならない!  そう決意して、話をもっと聞き出そうとする。 「治験っていうのは嘘で、ここは、…β性をΩ性に変える施設なんだな?」 「Ωの存在については、国から箝口令が敷かれている。だから、この施設の事は絶対に秘密だ…。」  犬童がそう言った後、司季の録音機能が停止し、音声データが消去されたというメッセージが表示された。  有線で繋げられている為、司季の義眼デバイスの権限は、犬童にもあるのだと知らされる。  悔しそうな表情を浮かべる司季に、犬童は穏やかな口調で話を続ける。 「…ラストΩが45年前に亡くなり、この国でΩ性というものが絶滅した。他国でも同じような事が起き、全世界からΩは消え去ってしまったんだ。それから数年後、各国でΩを人工的に生み出す研究が始動した。だが、それは、ことごとく失敗に終わったらしい。…それでも研究は続けられ、今から10年程前の日本(ここ)で、β性をΩ性に変える事に成功した。その貢献者は…当時21歳だった、この私だ。」  司季の目の前に、一枚の書類データが表示される。犬童が司季のデバイスを、外部から操作しているようだった。  そこには若き日の犬童の写真があり、彼の功績を称え、この研究所の所長に任命する旨が記載されていた。 「政府が”リジェンバース・プロジェクト”と名付け、多くの”魂の番”を求めるαが、支援してくれるようになった。組織の運営が安定したお陰で、最初、30%くらいしかなかった成功率が、今年に入って、やっと100%になったんだよ。」  次に出資者リストの抜粋が表示され、"No.8977"と犬童公亮の名前が拡大された。見覚えのある数字は、治験の申し込み用紙に小さく記載されていたものだ。 ――紹介者は全員、出資して、申し込み用紙を入手していたのか…!  司季は(てい)よく犬童の指名により、ここへ来ることになったのだと思い知らされる。 「一度、Ω化に失敗した後の成功率は、どんどん下がっていくんだ。…大事な司季君で失敗するわけにはいかないからね。成功率100%になってから、君をここへ誘い込むつもりだった。」  司季は犬童が訪れた日のことを思い出した。 「…俺が一人になったのを見計らって、訪れたわけか。」  犬童は失笑すると、首を横に振った。 「私はそんなに暇じゃない。私が行ける時に、他の探偵達には偽の依頼をして、出払って貰ったんだよ。…インプランタブル世代の失踪事件の依頼。これは出産予定のΩの男性が、身を隠す際に捏造させた事件だ。サイバー捜査の依頼に関しては、警察組織の中にもαの協力者がいるからね。…つまり、そういう事だよ。」 「…研究者の事故死も、箱根で死亡した女性の件も、捏造だったのか?」 「その二つは、たまたま本当に起こった事件を利用させて貰ったんだ。箱根の件に関しては、この施設から程々に遠い場所を選び、適当な事件を取り上げた。研究員の交通事故死に関しては、…ああ、これは、たまたま起こったんじゃなかったな。…林、いや、(リン)浩然(ハオラン)は中国の産業スパイで、とある機関に処分されたんだ。その事件は直ぐに隠蔽されたから、数日後にはネット上からも削除された。君がネットで確認したのは、君のみに発信されたニュースだったというわけだ。…因みに三日前の医務室での注射は、君の逃走を煽る為にした事だよ。」  不意に、カプセルのガラス部分が中央から開いていき、両サイドへ沈んで行った。  司季は起き上がろうとしたが、依然、体は固定されて動かない。 「まだ、血液の循環を良くする装置を作動させてる。その所為で動けないんだ。」  犬童が体を屈め、司季の顔を覗き込み、首筋や頬を撫でる。  その瞬間、司季は貪りたくなるような芳香を、犬童から感じた。それを必死で自制し、司季は殺意を発する。 「俺に触るな…!」  犬童は名残り惜しそうに、司季の体から指先を退かせると、少しだけ距離を置いた。 「大丈夫かい?随分と、体が火照っているようだね。…Ωになってしまったんだから、それも仕方ないか。」  その言葉に、司季は耳を疑った。 「俺は薬を飲んでない!…一度、注射されただけだ。それなのに、どうして…?」 「私が君に捜査依頼をしに行った時、”薬を飲まない方がいい”と、わざわざ言ったのは、どうしてだと思う?」  犬童は目を細めて、狼狽し始めた司季を冷笑する。 「君が薬さえ飲まなければいいと、そう思い込むように、敢えてそう言ったんだよ。」 「…薬じゃない?それじゃ何が…?」 「食事だよ。…ここで摂取した食べ物、飲み物全てが、君の体を作り変えたんだ。…食事が人の体を作るって、よく聞くだろう?…まあ、ここで出された食事は、特殊な物だったんだけどね。」  犬童は司季に衝撃の真相を放つと、再び司季のデバイスを勝手に捜査し、写真や文書データを複数写し出して見せた。それは所長室で見た複雑な化学構造式と、微生物が漂う写真で、他にはナノマシンのプログラムについての文書もあった。 「君達がここで飲み食いしていた物の中には、Ωの遺伝子を持つ、ある生命体が数十億個、存在していたんだ。」 「…生命体?」  得体の知れない物を食していたのだと知り、司季は急に吐き気を覚えた。 「メタゲノミクスの応用で、彼らを誕生させる事に成功した。一見、大腸菌のような姿をしてるけど、…この子達はね、自分の遺伝子を、潜伏先の細胞にコピーするという意思を持って活動するんだ。そして遺伝子の書き換えが終わると、死滅して体外へ排出される。完璧なプログラムを持つ生命体だろう?」 「Ωの遺伝子をコピー?」 「名前は”リライト”って言うんだ。ちょっと安易だったかな?…Ω化の成功率が悪かった頃は、リライトだけを送り込んでいた。改良を繰り返しながらね。…でも体内で妨害は起こる。そこで、リライトをサポートするナノマシンを導入する事になり、近年、そのプログラムに成功した。それによってΩ化の成功率は、100%になったんだよ。」 「ナノマシン…。」  司季が呟くように言うと、犬童が頷いた。 「君はここへ来る前、鴻嶋バイオメディカル・クリニックで、義眼の定期健診を受けてたよね。その際に投入された、検査用ナノマシンの一部はハッキングされていて、君の中に残ったんだ。…リライトをサポートする為にね。」 「他の被験者も…?」 「例外なく、そうだよ。」  犬童の顔が再び寄せられると、司季の体は更に熱に乱されそうになった。 「それじゃ、あのフィルム製剤に意味はなかったのか…?」 「意味はある。…あの薬はスパイを欺く為に、少し複雑に作り込まれている。でも、それが第一の目的じゃない。あの薬の重要な役割は、食欲を増進させる事にあるんだ。…リライトを沢山、摂取すれば、いち早くΩ化するからね。」  治験者達が揃って、食欲旺盛な様子を見せていた事を司季は思い出した。 「被験者の滞在日数がバラバラだったのは、食事の摂取量が関係してたって事か…。」 「個人の体質や体調にも左右されるけど、基本はそう、リライトの摂取量だ。」  司季は全てを理解した。しかし、ひとつだけ理解できない事がある。 「なんで俺なんだ…?」  犬童はその問に、今度は優しい笑みを浮かべた 「…言っただろう?私は司季君の大ファンだって。」 「5、6歳の頃、キッズモデルをしてた俺の?」  司季は本能とは裏腹に、理性で嫌悪を感じた。 「君が誘拐された時、私は15歳で…。何も出来ず、ただひたすらに君の救済を願ったよ…。」  犬童は憂いを帯びた表情で、過去の記憶を語り出した。 「その後、君は奇跡的に助け出されたけど、両目を失っていた。…その時、私は、不謹慎だけど、やっと君を助けられると思ったんだ。」 「どういう事…?」  司季は理解出来ず、犬童の言葉に集中した。 「私は13歳の時、アメリカの大学で、ケミカルバイオロジストとしての博士号を取得した。日本に帰って来てからは、独自に人体とコンピューターを融合させる研究とかもやっていたんだ。そして君の為に、義眼デバイスを考案した。…私の父はメカトロニクスに精通していたから、協力を仰いで、僅か一週間で義眼デバイスを実用化させる事が出来たんだ。」 「そんな、信じられない…。」  司季の体は震え出した。 「あの時は必死だったよ。父を本気にさせる為に、私は自分の左目を犠牲にしたんだからね。…ほら、私の左目は君と同じ義眼デバイスなんだよ。」  間近で見せられた犬童の左目は、よく見ると、右目と違い、充血のない綺麗な白目をしていた。  自分と同じ物だと確信した瞬間、司季から殺意が消えていく。 「どうして、名乗り出てくれなかったんだ…?」 「そういう条件だったんだ。…病院側に義眼デバイスの権威を委ねるなら、無償で君の手術と、私の手術を行うと言われた。」  それは、司季が6歳の頃、担当の女医から聞いた話とは少し違っていた。大人の事情というのが絡んでいたのだろう。 「…刹那的出会いが、私達には会ったんだよ。」  そう言うと、犬童はリライトのデータを消し、別の写真データを開いた。  そこには、両目に包帯をした小さな司季と、左目に眼帯をした少年の写真が写っていた。少年はすらりと背が高く、犬童の面影があった。  司季の瞳から涙が溢れ出て来る。それを拭えないまま、司季は犬童を見つめた。 「番にでも、何にでもなってやるよ…。」  震える声で囁かれ、犬童は眉を顰めた。 「今、なんて…?」  司季は答える為に、呼吸を整えた。 「俺に目をくれた人が見つかったら、全身全霊を掛けて、感謝の意を表すつもりだった…。芸能界には戻らなかったけど…。でも、それ以外なら、何でも望みを叶えてやるって思ってた…。」  司季の変化に戸惑いを見せた犬童だったが、暫し見つめ合った後、医療ドームの電源を落とした。  拘束を解かれた司季はゆっくりと起き上がると、犬童に抱き着き、その後、彼を求めたのだった。

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