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1 累(Jul.18th)

『追試の後、私の個人研究室まで来て欲しい。君にとって、いい話がある。』  そのメールに目を通した琴平(ことひら)(るい)は、溜息をひとつ洩らしてから立ち上がると、試験会場だった教室を出た。その直後、背後から声を掛けられる。 「お疲れ、どうした?すげぇ、溜息。…追試も失敗した?」  累の数少ない友人の一人である、長澤(ながさわ)だった。累は彼を軽く睨み付ける。 「失敗はしてない!…畠山(はたけやま)教授から、呼び出しのメール貰ったんだよ。…俺、あの人の目に留まる事、なんかしたかな?」 「さあ、俺の知る限り、呼び出し喰らうような接点はない…気がするけど?」 「…だよね。」  累は畠山の情報を、頭の中で構築し直してみる。  畠山は臨床薬学の担当講師で、現在35歳、噂では未だ独身。クールな印象の彼は、女子生徒に人気が高い。彼の講義の際は、教室が女子生徒だらけの印象となる為、累は敢えてオンラインで授業を受けていた。  そんな感じで、特に接点もなかった筈なのに、どういう理由(わけ)か5月の下旬辺りから、彼に声を掛けられるようになったのだった。  顔を合わせると二、三言、近況を訊かれ、授業や試験に関するメール連絡は、秘書ではなく本人から個人的に送られてくる。その行為には違和感しか得られなかった。 「教授に目を掛けて貰えるのは、光栄なことだと思うけど…。納得出来ないなら、なんで構うのか、今日、直接本人に訊いてみたら?」  長澤の意見を、累は有難く受け入れる。 「うん、そうしてみるよ…。」 「取り敢えず、試験は終わったし、二年最後の夏休み、満喫しようぜ!」  エントランスへ向かう長澤と、途中で別れる。  累は一人、大学構内にある畠山の個人研究室を目指し、猫背な姿勢で歩き出した。それは、ここからそう遠くない場所にある。数分後には辿り着いてしまう距離だ。  複雑な幾何学模様のタイルが敷かれた道に視線を落とし、小股に歩を進めていく。 ――悪い人じゃないとは思うけど、なんか苦手なんだよな…。でも、”いい話”というのは気になる…。  累はふと、目線を上げた。 ――”いい話”を聞いて、それから、どうして俺を気に掛けてくれているのかを確認しなくちゃ!  目標を掲げると、先程よりも速度が上がった。  道沿いに作られた花壇に咲く、色とりどりのペチュニアが途切れた頃、グレーの四角い建物の玄関が見えた。三階建てで、比較的小さなこの建物は講師専用となっており、学生の出入りは普段から多い方ではない。  累がこの中へ入るのは、今日が初めてだった。  ロビーの見取り図で畠山の部屋を確認すると、階段で二階へ上がった。  そこから直ぐ近くに、畠山のネームプレートが掲げられた扉はあった。  緊張を浮かべながらインターホンを押すと、30歳前後とみられる女性秘書が扉を開け、累を出迎えた。 「応接室の方へどうぞ。」  秘書は手のひらで指し示すと、一礼して部屋を出て行ってしまった。 ――まさか、教授と二人っきりにされた…?  累は急に怖気付いたが、取って食われるわけではないと、自身に言い聞かせ、応接室へ入った。  中は広く、大理石の長方形のテーブルを、ぐるりとソファが囲んでいる。10人がゆっくりと座れそうな雰囲気だ。その一角に、今日もクールな物腰の、イタリア製のスーツに身を包んだ畠山が座っていた。オンラインの授業や遠目からでは気付きにくい、縁無しの薄い眼鏡を掛けている。 「すまないね、急に呼び出して。どうぞ、座って。」  累は離れた位置に座りたかったが、淹れたての紅茶が二つ近い処にあり、必然的にそこに座る羽目になった。座ると、畠山とテーブルのコーナーを挟んだ形となり、累は近い距離感に身を強張らせた。 「そう固くならなくてもいいよ。」 「あの、お話というのはなんですか?」 「…先ず、世間話から入ろうじゃないか。」 「出来れば、要点だけお願いします。」  きっぱりと告げた累だったが、畠山は聞こえない振りをする。 「毎回、追試を受けてるようだけど、難しいかい?」 「はい。覚える事が多過ぎて…。」 「9月には進級できそう?」 「…必要な単位は取れてますし、出来ると思います。」 「最近、体調はどうかな…?」  閉口し掛けた累だったが、先に進まないと思い、仕方なく返答を続ける。 「…普通です。」 「本当に?…親元を離れて、一人暮らしなんだろう?」 「ルームメイトがいます。」 「へぇ、そう。この大学の子?」 「別の大学です。」 「仲、良いの?」 「…悪くはないですけど、最近、顔を合わせることも少ないんで…。」  いつまで続くのだろうかと、累が上目遣いで畠山の表情を確認すると、彼に満足気に微笑まれた。 「それじゃ、ここから本題だ。…君は今、割のいいアルバイトを探しているらしいね。」  遠い存在だと思っていた相手に、近況を見透かされ、累は顔色を悪くする。 「いい話って、アルバイトの件なんですか?」 「そうだよ。…一年生の時はアルバイトしてたみたいだけど、辞めたのは勉強が忙しいから?」  畠山の親身な物腰に、累は正直な姿勢になる。 「はい。一年の時はバイトに時間を割いて、再履修に明け暮れた生活だったので、それを繰り返したくなくて、二年に進級した時、バイトは辞めました。更に授業数も増えましたし、午後から実験や実習がある日は、時間に全く余裕がなくて…。それでも、仕送りだけじゃ辛くて…。」 「それで、割のいいアルバイトを希望ね…。」  累が頷くと、畠山はテーブルの下から、A4サイズの電子ペーパーを取り出した。 「…だったら、これなんか、どうだろう?」  電子ペーパーを受け取ると、最初に目に着いたのは、大手製薬会社のカディーラ・ジャパンのロゴマークだった。そこを指先で触れると、ペーパー内に文書が浮かび上がる。  内容を目にした累は、顔色を変えた。 「カディーラの治験…?薬学部の俺が治験する方じゃなくて、受ける方だなんて…。しかも期間が一ヶ月!?…こんなバイトは出来ませんよ。」  累の態度は想定内だとばかりに、畠山は余裕の表情を浮かべている。 「これから夏休みだろう?丁度、いいと思ってね。…休み明けには三年になるんだから、そこからは更に時間に余裕が無くなると思うよ。君には、私の研究室の一員になって貰いたいと思っているしね。」 「…理由は何なんですか?俺は成績がいい方じゃないですし、気に掛けて貰えるような存在ではないと思います。」  割と自然な流れで、訊きたい事を切り出せた累だった。  畠山は僅かな間を置いた後、口を開いた。 「…君はカディーラの社員を目指しているんだろう?君なら、この治験に興味を持ってくれると思ったんだよ。」  畠山の答えは、累が予想したものから、大幅にずれていた。 「治験を受けさせたくて、俺に話し掛けてたって事ですか?」  訝るような視線を向けると、畠山は少しだけ焦り顔を見せた。 「そういう訳ではないよ。…君は真面目で、本当に勉強熱心な努力家だ。もう少し実力を上げる必要があるけどね。そこで、この治験だ。」  畠山は取り繕った後、電子ペーパーの文書を指示した。 「機能向上させる治験薬。これはね、…ここだけの話だけど、カディーラは極秘に、人工的にαを作る研究をしているんだよ。」  畠山の囁きに、累は瞳を大きく見開いた。 「αを…ですか?」 「君はαを知っているようだね。…最近では、知らない者も存在するというのに。」 「知ってます。性因子のひとつですよね?…遺伝子にそのマークがあると、とても優秀な人間に育つという。」 「ああ。だけど残念なことに最近では、その人口は5%に満たなくなってきているんだ。」 「人工的に作るというのは、生み出すのではなく、βをαに変える研究なのですか?」 「そう。これは国が提案したものでね、多額の研究費用が投資されている。噂では完成間近だという話だよ。」  この話は怪しいと、累は率直に感じた。 「ここだけの話と言われましたが、これを受ける他の人は、治験の本来の目的を知らずに受けるって事ですか?」 「極秘に進められている計画だからね。…酷い副作用があるって話は聞かないし、知らない間にαになってしまったとしても、問題はないだろう?しかも、日給一万円が支払われるんだよ。」  累は再度、文書に目を走らせる。  7月の中旬である今、申し込めば、8月中にアルバイトを終え、三十万近くを手にする事が出来るだろう。それでも、即答は難しかった。 「少し考えさせて貰っていいですか?」  累がそう言うと、畠山は意外な顔し、それから溜息を吐いてみせた。 「いいけど、候補は君以外にもいるからね。なるべく早く返事を頼むよ。」  累が電子ペーパーを持ち帰ろうとすると、素早くそれを、畠山に奪われてしまった。 「これは渡せない。一枚しかないのでね。…それから、治験のアルバイトに関しては話してもいいけど、αに関する内容については、一切、他言無用だよ。」  鋭く同意を求められ、累は頷くしかなかった。 「私の連絡先を君に送るよ。…決心が着いたら、直ぐに連絡して。」  累は立ち上がって一礼すると、その部屋を後にした。 

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