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3 累(Past days~2056・前編~)
初恋を失恋で終えた後、累は新たに恋をすることもなく、地元の中学へと進学した。
何の問題もなく、快活に中学生活を送っていた累だったが、突如起こった体の異変により、彼の人生は狂わされる事となった。
7月中旬のある日、雨天続きにより見送られていた水泳の授業が、累のクラスで初めて行われた。
時期的に、中学一年としては最初で最後の水泳の授業だろうと、皆が口々に話していた。
小学生の時以来のプールでの授業である為、累は緊張した面持ちで参加し、それは物足りなさも残しつつ終わりの時を迎えたのだった。
その後、クラスメイトと更衣室に辿り着いた時、悲劇は起こった。
友人の一人が、急に累の胸を揉んできたのだった。
「琴平って、なんかエロいオッパイしてる!」
更衣室内に、友人の声変わり前の甲高い声が響き渡った。
「何、すんだよ!?」
慌てて累は胸を庇い、友人から離れた。
「俺も授業中、気になって、ずっと見てた。微乳で美乳?…ちょっと触らせてよ。」
別の友人までもが手を出してきて、累の体は注目の的となった。
「嫌だよ、変態!」
「男同士なんだし、別にいいだろ!?…女にする方が変態扱いされるしさぁ。」
数人の手が累に伸びてきた処へ、一番親しくしていた友人の一人が、割って入った。
「誰にやっても変態だ!…おまえら、バカだろ?」
そこで事態は収束したが、累は陰で「美乳ちゃん」と囁かれるようになってしまった。
その時初めて、累は自身の胸が、普通の男子よりも膨らんでいる事に気が付いたのだった。
泣きながら母に相談すると、病院に連れて行かれる事になった。
「特発性女性化乳房…ですかね。しこりはないし、危険な因子はなさそうだ。」
二十代後半とみられる医師は、累の胸を左右共、執拗に触診した。
「…たまにあるんですよ。ホルモンバランスが崩れたり、何かの食事が原因だったり…。大人の男性に対しては手術という処置もあるのですが、君はまだ中学生ですしね。ホルモンバランスを整えるようにして、少し様子をみてみましょう。」
結局、受診は恥ずかしい思いをしただけで、何も解決しては貰えなかった。
インターネットで独自に調べた累は、食事を疑うようになり、それを選んで与えた母親を酷く責め立てるようになった。根拠は特になかったが、女性ホルモンを投与された肉用牛の話等が、曲解を生んだようだった。
もう、学校へは行けない。誰にも会いたくない。そう言って泣き続け、食事も拒否するようになった累に、ずっと見て見ぬ振りをしていた父親が、不意に手を差し伸べてきた。
「水泳の授業のない学校に転校するか?それなら問題ないだろう?…簡単じゃないと思うけどな。」
父親が持って来てくれたのは、隣の市にある私立中学のパンフレットだった。
累はそれに希望を見出すと、父に感謝し、編入試験の為の猛勉強をした。
そして努力は報われ、累の胸の件を誰も知らない環境へと、踏み出せる事となった。
8月の終わり、長年暮らした団地を出て、琴平家は隣の市で一戸建ての借家に引っ越した。
車で通勤する父親の会社は、10分ほど遠くなった程度で済んだらしかった。母親は新しいパートを見つけるのに苦労していたが、なんとか働き始め、生活は軌道に乗ってきたようだった。
この環境を守り抜く為にも、絶対に胸の秘密を知られてはいけないと、累は自身を強く戒める。
始業式、半袖のシャツに紺のベストを着た累は、胸が目立ってない事を確認すると、見知らぬ群れの中へ入っていった。
新しい中学は男子校だったが、見た処、品行方正な子息の集まりといった印象だった。
始業式後、各クラスでホームルームが行われ、新学級の自己紹介による顔見せが行われた。
中学二年の初めという、区切りのいい形で編入し、転校生感が少し薄まっている事に安心していた累だったが、担任教師が累を改めて転校生だと紹介し、注目を集めてしまう事となった。
その後、委員や係決めをすると、担任は新学級委員長を指名し、累に学校内を案内するように言った。
ホームルームが終わると、180cm近い身長の男子が、累のもとへ颯爽と近付いてきた。
それが委員長の津木 周弘 で、累が二人目のαとの出会った瞬間だった。
「早速、校内を案内するよ。」
「あの、校内マップはデバイスに入ってるし、特記事項がありそうな所だけでいいよ。」
累が遠慮がちに言うと、津木はスポーツマン風の、日に焼けた肌から白い歯を覗かせ、爽やかに笑った。
「了解!…それなら、実習棟とクラブ棟かな。」
津木は実習棟へと進行方向を決め、累を誘導し、歩き出した。
「クラブ棟も行かなくていいかな…。部活に入るつもりないし。」
累は消極的な素振りを見せ、津木から目を逸らした。内心、早く帰りたいと思う。
「うちは運動部も文化部も、充実してるよ。見るだけ見たらいいのに!…因みに俺は水泳部!」
その言葉に、累は過剰反応する。
「え!?この学校、水泳の授業はないんじゃないの!?」
「一般の生徒はないよ。うちのプールは水泳部専用で、一般の生徒は立ち入り禁止になっているから。」
「そう…なんだ。」
累は秘かに胸を撫で下ろした。
「…もしかして、琴平君って泳げない人?」
「まあ、そんなとこ…。」
累は顔を紅潮させ、誤魔化すようにそう言った。
「津木君は…苦手な事って、なんかある?」
「何?弱味の交換?」
累の質問に、津木は勘ぐるような視線を向けてきた。だが、その口角は上がっている。
「そんなんじゃないけど…。」
「俺はαだからね。特にないな…。」
さらりとαだと告げられ、累は思わず怪訝な表情を浮かべた。
「…αって、東京の学校へ行くんじゃないの?」
「推奨はされてるけど、別に決まりって訳じゃないよ。」
累の態度を気にした風もなく、津木は面倒見の良さを発揮して、ガイドを全うした。
「なんか、困った事あったら、いつでも言ってくれよな!」
「うん。今日は有難う…。」
津木と別れた累は、漸く緊張から解き放たれた。
――悪い奴じゃないと思うけど、なんか苦手だ…。
それでも孤立は避けたいと思う累は、津木だけにではなく、上辺だけで遣り過ごすことを心に決めた。
その一週間後、健康診断という難関が待ち受けている事に気付いた累は、頭を悩ませ始めた。
病欠するしかないと嘆く累に、それを見兼ねた母は、担任教師に事情を説明し、配慮して貰えないか相談する事を提案した。
母と一緒に担任との話し合いの場を設け、女性化乳房の説明をすると、担任は真摯に受け止めてくれた。そして、健康診断で上半身脱がなければいけない検査のみを、累だけ別室で行うと約束してくれたのだった。
健康診断、当日。体操服姿の累は猫背な姿勢で、出席番号順に並ぶ列に加わっていた。いくつかの検査項目を終えた後、担任教師が声を掛けにきて、累は列を抜け出した。
そして、通常はカウンセラー室となっている、そう広くない部屋に通される。
「ここは教師専用なんだけど、ちゃんと誰も来ないようにしてあるからね。…それと、琴平君の制服も持って来たよ。終わったら、ここで着替えて、教室に戻って来たらいいよ。」
きちんと畳まれている累の制服を手渡した担任は、軽く手を上げて去って行った。
中には50歳くらいの白衣の男性医師が一人と、持ち込まれた医療用検査ベッドがひとつあり、医師が心電図検査をするので上半身裸になるように言ってきた。
ここに噂を広めるような生徒はいない。そう思うと、累は思い切って体操服の上を脱ぐことが出来た。
ベッドに横たわるように言われ、従いながら医師の顔を見上げると、彼が累の体に無反応である事が分かった。
――みんな、こうだったらいいのに…。
検査が終了して、ベッドから起き上がった時、急に扉が開けられる音がした。
反射的に振り返ると、パーテーションが置かれている為見えなかったが、誰かが入ってきたことが分かった。
「君、ノックも無しに入って来るとは、失礼じゃないかね?」
「すみません。…クラスメイトが一人見当たらなくなって、探してたんです。」
厳しく注意する医師の後に続いた声は、なんとクラス委員長の津木だった。
「琴平って生徒、見ませんでしたか…?」
言いながら、津木は中へ入り、扉を閉めたようだった。
――嘘!中に入って来た!?
パーテーション越しに焦り出した累は、医療ベッド横に置いた制服に、慌てて手を伸ばした。
「ここは先生方専用だよ。生徒はここへは来ない。…さあ、君も出て行きなさい。」
再度、医師が厳しく言うと、津木は大人しく出て行ったようだった。
「あの、有難うございました…。」
制服に着替え終わった累は、津木を追い払ってくれた医師に、深々とお辞儀をして感謝の意を伝えた。
気を抜いた状態で部屋を出た累は、数歩進んでから愕然とする。
そこに、先程出て行った津木が、立ちはだかっていたからだった。
「いつから教師になったんだ…?」
津木は制服に着替えていたが、ベストは着ておらず、ボタンも二つほど開いており、少し柄が悪く見えた。
「津木君には関係ないよ。」
「そう言えば、体操服に着替える時も、どっか居なくなってたよな?…なんか見られたらいけない秘密でもあんの?」
質問には答えず、強気でスルーしようとした累の腕を、津木はがっつりと掴んで自身の方を向かせた。そして、高い位置から累の事を観察してくる。
「目付き悪いけど、よく見ると可愛い顔してるし、実は女の子だったりして…。」
「そんな訳あるか!」
累は掴まれた腕を、強く振り切った。
そこで上手く逃げ果 せた累だったが、津木は思いの外しつこく、真相を知ろうと、二人きりになる機会を見計らっては、その後も問い詰めてくるようになった。
その日から、津木は累の天敵として認識される事となったのだった。
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