43 / 44

3 累(Past days~2056・前編~)

 初恋を失恋で終えた後、累は新たに恋をすることもなく、地元の中学へと進学した。  何の問題もなく、快活に中学生活を送っていた累だったが、突如起こった体の異変により、彼の人生は狂わされる事となった。  7月中旬のある日、雨天続きにより見送られていた水泳の授業が、累のクラスで初めて行われた。  時期的に、中学一年としては最初で最後の水泳の授業だろうと、皆が口々に話していた。  小学生の時以来のプールでの授業である為、累は緊張した面持ちで参加し、それは物足りなさも残しつつ終わりの時を迎えたのだった。  その後、クラスメイトと更衣室に辿り着いた時、悲劇は起こった。  友人の一人が、急に累の胸を揉んできたのだった。 「琴平って、なんかエロいオッパイしてる!」  更衣室内に、友人の声変わり前の甲高い声が響き渡った。 「何、すんだよ!?」  慌てて累は胸を庇い、友人から離れた。 「俺も授業中、気になって、ずっと見てた。微乳で美乳?…ちょっと触らせてよ。」  別の友人までもが手を出してきて、累の体は注目の的となった。 「嫌だよ、変態!」 「男同士なんだし、別にいいだろ!?…女にする方が変態扱いされるしさぁ。」  数人の手が累に伸びてきた処へ、一番親しくしていた友人の一人が、割って入った。 「誰にやっても変態だ!…おまえら、バカだろ?」  そこで事態は収束したが、累は陰で「美乳ちゃん」と囁かれるようになってしまった。  その時初めて、累は自身の胸が、普通の男子よりも膨らんでいる事に気が付いたのだった。  泣きながら母に相談すると、病院に連れて行かれる事になった。 「特発性女性化乳房…ですかね。しこりはないし、危険な因子はなさそうだ。」  二十代後半とみられる医師は、累の胸を左右共、執拗に触診した。 「…たまにあるんですよ。ホルモンバランスが崩れたり、何かの食事が原因だったり…。大人の男性に対しては手術という処置もあるのですが、君はまだ中学生ですしね。ホルモンバランスを整えるようにして、少し様子をみてみましょう。」  結局、受診は恥ずかしい思いをしただけで、何も解決しては貰えなかった。  インターネットで独自に調べた累は、食事を疑うようになり、それを選んで与えた母親を酷く責め立てるようになった。根拠は特になかったが、女性ホルモンを投与された肉用牛の話等が、曲解を生んだようだった。  もう、学校へは行けない。誰にも会いたくない。そう言って泣き続け、食事も拒否するようになった累に、ずっと見て見ぬ振りをしていた父親が、不意に手を差し伸べてきた。 「水泳の授業のない学校に転校するか?それなら問題ないだろう?…簡単じゃないと思うけどな。」  父親が持って来てくれたのは、隣の市にある私立中学のパンフレットだった。  累はそれに希望を見出すと、父に感謝し、編入試験の為の猛勉強をした。  そして努力は報われ、累の胸の件を誰も知らない環境へと、踏み出せる事となった。  8月の終わり、長年暮らした団地を出て、琴平家は隣の市で一戸建ての借家に引っ越した。  車で通勤する父親の会社は、10分ほど遠くなった程度で済んだらしかった。母親は新しいパートを見つけるのに苦労していたが、なんとか働き始め、生活は軌道に乗ってきたようだった。  この環境を守り抜く為にも、絶対に胸の秘密を知られてはいけないと、累は自身を強く戒める。  始業式、半袖のシャツに紺のベストを着た累は、胸が目立ってない事を確認すると、見知らぬ群れの中へ入っていった。  新しい中学は男子校だったが、見た処、品行方正な子息の集まりといった印象だった。  始業式後、各クラスでホームルームが行われ、新学級の自己紹介による顔見せが行われた。  中学二年の初めという、区切りのいい形で編入し、転校生感が少し薄まっている事に安心していた累だったが、担任教師が累を改めて転校生だと紹介し、注目を集めてしまう事となった。  その後、委員や係決めをすると、担任は新学級委員長を指名し、累に学校内を案内するように言った。  ホームルームが終わると、180cm近い身長の男子が、累のもとへ颯爽と近付いてきた。  それが委員長の津木(つぎ)周弘(ちかひろ)で、累が二人目のαとの出会った瞬間だった。 「早速、校内を案内するよ。」 「あの、校内マップはデバイスに入ってるし、特記事項がありそうな所だけでいいよ。」  累が遠慮がちに言うと、津木はスポーツマン風の、日に焼けた肌から白い歯を覗かせ、爽やかに笑った。 「了解!…それなら、実習棟とクラブ棟かな。」  津木は実習棟へと進行方向を決め、累を誘導し、歩き出した。 「クラブ棟も行かなくていいかな…。部活に入るつもりないし。」  累は消極的な素振りを見せ、津木から目を逸らした。内心、早く帰りたいと思う。 「うちは運動部も文化部も、充実してるよ。見るだけ見たらいいのに!…因みに俺は水泳部!」  その言葉に、累は過剰反応する。 「え!?この学校、水泳の授業はないんじゃないの!?」 「一般の生徒はないよ。うちのプールは水泳部専用で、一般の生徒は立ち入り禁止になっているから。」 「そう…なんだ。」  累は秘かに胸を撫で下ろした。 「…もしかして、琴平君って泳げない人?」 「まあ、そんなとこ…。」  累は顔を紅潮させ、誤魔化すようにそう言った。 「津木君は…苦手な事って、なんかある?」 「何?弱味の交換?」  累の質問に、津木は勘ぐるような視線を向けてきた。だが、その口角は上がっている。 「そんなんじゃないけど…。」 「俺はαだからね。特にないな…。」  さらりとαだと告げられ、累は思わず怪訝な表情を浮かべた。 「…αって、東京の学校へ行くんじゃないの?」 「推奨はされてるけど、別に決まりって訳じゃないよ。」  累の態度を気にした風もなく、津木は面倒見の良さを発揮して、ガイドを全うした。 「なんか、困った事あったら、いつでも言ってくれよな!」 「うん。今日は有難う…。」  津木と別れた累は、漸く緊張から解き放たれた。 ――悪い奴じゃないと思うけど、なんか苦手だ…。  それでも孤立は避けたいと思う累は、津木だけにではなく、上辺だけで遣り過ごすことを心に決めた。  その一週間後、健康診断という難関が待ち受けている事に気付いた累は、頭を悩ませ始めた。  病欠するしかないと嘆く累に、それを見兼ねた母は、担任教師に事情を説明し、配慮して貰えないか相談する事を提案した。  母と一緒に担任との話し合いの場を設け、女性化乳房の説明をすると、担任は真摯に受け止めてくれた。そして、健康診断で上半身脱がなければいけない検査のみを、累だけ別室で行うと約束してくれたのだった。  健康診断、当日。体操服姿の累は猫背な姿勢で、出席番号順に並ぶ列に加わっていた。いくつかの検査項目を終えた後、担任教師が声を掛けにきて、累は列を抜け出した。  そして、通常はカウンセラー室となっている、そう広くない部屋に通される。 「ここは教師専用なんだけど、ちゃんと誰も来ないようにしてあるからね。…それと、琴平君の制服も持って来たよ。終わったら、ここで着替えて、教室に戻って来たらいいよ。」  きちんと畳まれている累の制服を手渡した担任は、軽く手を上げて去って行った。  中には50歳くらいの白衣の男性医師が一人と、持ち込まれた医療用検査ベッドがひとつあり、医師が心電図検査をするので上半身裸になるように言ってきた。  ここに噂を広めるような生徒はいない。そう思うと、累は思い切って体操服の上を脱ぐことが出来た。  ベッドに横たわるように言われ、従いながら医師の顔を見上げると、彼が累の体に無反応である事が分かった。 ――みんな、こうだったらいいのに…。  検査が終了して、ベッドから起き上がった時、急に扉が開けられる音がした。  反射的に振り返ると、パーテーションが置かれている為見えなかったが、誰かが入ってきたことが分かった。 「君、ノックも無しに入って来るとは、失礼じゃないかね?」 「すみません。…クラスメイトが一人見当たらなくなって、探してたんです。」  厳しく注意する医師の後に続いた声は、なんとクラス委員長の津木だった。 「琴平って生徒、見ませんでしたか…?」  言いながら、津木は中へ入り、扉を閉めたようだった。 ――嘘!中に入って来た!?  パーテーション越しに焦り出した累は、医療ベッド横に置いた制服に、慌てて手を伸ばした。 「ここは先生方専用だよ。生徒はここへは来ない。…さあ、君も出て行きなさい。」  再度、医師が厳しく言うと、津木は大人しく出て行ったようだった。 「あの、有難うございました…。」  制服に着替え終わった累は、津木を追い払ってくれた医師に、深々とお辞儀をして感謝の意を伝えた。  気を抜いた状態で部屋を出た累は、数歩進んでから愕然とする。  そこに、先程出て行った津木が、立ちはだかっていたからだった。 「いつから教師になったんだ…?」  津木は制服に着替えていたが、ベストは着ておらず、ボタンも二つほど開いており、少し柄が悪く見えた。 「津木君には関係ないよ。」 「そう言えば、体操服に着替える時も、どっか居なくなってたよな?…なんか見られたらいけない秘密でもあんの?」  質問には答えず、強気でスルーしようとした累の腕を、津木はがっつりと掴んで自身の方を向かせた。そして、高い位置から累の事を観察してくる。 「目付き悪いけど、よく見ると可愛い顔してるし、実は女の子だったりして…。」 「そんな訳あるか!」  累は掴まれた腕を、強く振り切った。  そこで上手く逃げ(おお)せた累だったが、津木は思いの外しつこく、真相を知ろうと、二人きりになる機会を見計らっては、その後も問い詰めてくるようになった。  その日から、津木は累の天敵として認識される事となったのだった。

ともだちにシェアしよう!