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第6話 寿輪楼夜話・5
しかも人間の体とは本当に不思議なもので、こんな時に限って催してしまうのである。
「やだやだ、やだ。もう少し、淡雪が来るまで頑張って……!」
股間に手を置いて膀胱を励ましたところで、尿意は全く収まる気配がない。商売用とは別の布団がしまってある部屋は、二階の奥だ。体の小さな淡雪が布団を抱えて階段を下りてここまで来るのに、一体何分かかるだろう。
じっと待つよりは迎えに行って合流し、ついでにトイレに付き合ってもらった方がいい。
「………」
俺は布団を抜け出して部屋の電気を点け、開け放った襖の先に広がる闇へと一歩踏み出した。
右隣は雷童さんの部屋。左隣は風雅さんの部屋。二人とも今夜は太客が来ているから、この部屋では寝ていない。お付きの春和歌と鈴鞠も、大部屋で一緒に寝ているだろう。
──ということは、本当に今の俺は、ひとりぼっち。
「っ……!」
静まり返った廊下を一心不乱に進み、まずは一晩中明かりが点いている寿輪楼の玄関を目指す。張見世が終わって入口の扉も閉じているが、ここは俺が楼で初めて天凱さんに出会った場所だ。それを思えば少しは落ち着くことができる。
「ふう……」
ここで待っていれば受付台の奥の大階段から淡雪が降りてくる。俺は太股をもじもじさせながら階段を見上げ、いま日本で一番会いたい男・淡雪を待ち続けた。
指切りげんまん、嘘ついたら針千本、飲ーます……。
「え、……?」
指切りげんまん、嘘ついたら……
ふいに聞こえてきた歌に、思わず顔を向ける。玄関から東に続く廊下の奥──暗闇の中に「それ」はあった。
「ヒッ、……」
廊下をこちらに向かって歩いてくる白い足。
それは膝から下しかない、二本の白い脚だった。
「や、いや……嘘……」
へなへなと腰が崩れ、受付台に手を付けながら尻もちをついてしまう。
指切りげんまん、嘘ついたら針千本、飲ーます……。
「い、いや……嫌ああぁっ……」
ひた、ひた、と迫ってくる白い脚。俺は体中をがたがたと震わせながら後ずさり、受付台に頭をぶつけてしまった。
「こ、来ないで……来ないで下さいっ……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……!」
「ゆーび切った!」
「ヒ、──」
続く悲鳴が声にならずに済んだのは、その「脚」の主が誰なのかを理解したからだ。
「こ、小椿さんっ?」
廊下から玄関に現れたのは、黒い夜着を着た小椿さんだったのだ。俺を驚かせようとして俯いた顔を髪で隠し、暗闇の中に脚だけが見えるように細工していたらしい。黒い夜着と黒髪とが闇に溶け、俺には脚しか見えなかったということだ。
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