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或夜

些細なミスで上司に叱責され、下ろして三日目の靴を帰宅中の電車の中で強かに踏まれ、帰宅後に疲労困憊の体を奮い立たせて作った肉じゃがについて、同居人が口にした一言に何かが切れた。 「うちの肉じゃがさあ、牛肉だったんだよね」 何気ない一言で切れた何かは音も立てず、じゃあ実家に帰れと口にする気力すら削いだ。衝動的に立ち上がり、食べかけの夕食を残して上着を掴む姿を同居人は無垢な眼差しで見上げていたことを覚えている。 「……出てくるわ」 一言呟くのが精一杯だった。この環境は俺を駄目にする。爆発してしまいそうな胸中を抱え、それを堪え、吐露することもせずに背を向けた。 それを眺める同居人の髪には寝癖が付き、寝巻きだか部屋着だかわからないスウェットは色褪せていた。うん、と頷く同居人の箸が動く。悪気が無いから反省は無い。 いい所のお坊ちゃんで、純粋無垢。人に甘えることに何の躊躇いもなく、踏み込んで来ることにも躊躇が無い。曇のない瞳で人に頼り、しまいには実家を追い出されたと家に転がり込んでくるような男。だがもうこの男には関わらない。面倒は見ない。会社は辞められないし、満員電車も避けられないからまずはこのヒモを引き離すことから始めなければいけない。 小さなアパートのドアを乱暴に閉めることすら、しなかった。 家を出た日が金曜日だったということは、繁華街をさ迷った後に適当に入ったネットカフェの受け付けで思い出した。狭い個室に籠り、ネットで話題になっていた漫画を半分まで読んだがさほど頭には入らず、寝落ちた末に朝を迎え、一旦店を出てから近くのスーパー銭湯に入った。風呂とサウナに入ると多少は頭がクリアになったらしく、家を出てから半日後にようやく同居人はどうしているだろうかと思い至った。 あの同居人がふらりと部屋を出ていった事は数回ある。心配して探し回ったのは始めの二回程度で、その後は放っておくと帰ってくるということに気が付いて探すこともしていなかった。 自分が家を出たのは初めてだ。あれは確か自分の部屋だったと思うのだがと諦念しつつ髭を剃り、近所の喫茶店で適当に食事を済ませた後にまた同じネットカフェに戻った。自分がそうであったように、自分が家を出てもあの世俗を超越したような同居人はきっと平然としているだろうと長時間のパックで契約し、漫画の続きを読もうと思ったが昨日よりも内容が頭に入って来ない。諦めて単行本を放り出し、また朝まで眠ってしまった。 スーパー銭湯でも仮眠したというのに全くよく眠れるものだと呆れつつ翌朝ネットカフェを出た。思えば自分は睡眠不足だったのかもしれない。睡眠不足と疲労の蓄積。家出の理由としては妥当な所だろう。日曜日の繁華街には小雨が降っていた。おまけに明日は月曜日だ。務め人は会社に行かなければならない。働かなければ自分もあの同居人も食わせられない。そして、スーツも通勤のための道具も全て自宅にしかないのだ。やれやれ、と首を回しながら街を抜け、肉じゃがを作った夜以来に自分の家のドアノブに指を掛けた。 なんとなく決まりが悪いような気がして咳払いを一つしてからドアノブを捻る。同時に、中からけたたましい足音が聞こえてきた。 「ーー…っ、」 中から現れた同居人は部屋着でも寝巻きでも無かった。おまけに髪にも寝癖が無い。外へと出掛ける時に履くビンテージのジーパンを腰に引っ掛け、きちんとシャツまで着ていた。その上の顔が今にも泣き出しそうに歪んでいる。目を瞬かせつつドアを後ろ手に閉めると、不健康な両腕が自分の体に差し出された。 「帰っ、て、」 「……ただい、」 細い腕に抱き寄せられる。途方に暮れた犬のような目をした同居人が固く自分を抱き竦めた。ふと視線を落とすと、濡れたスニーカーが転がっている。触れる髪にも水滴が散っていて、ーー彼が数分前に、否、自分がいない間にしていたことは、それだけで判るような気がした。 「…俺が、…どんな思いしたと思ってんの…っ」 それは今までの俺のセリフだ。 俺がどんな思いでお前を部屋に入れることを拒まず、養い、その為に働き、疲れて、それでもこの家に戻ってきてると思っている。 会社を辞められない理由も、何があってもこの家に帰ってくる理由も、全てがこの男に帰結するというのに。 骨張った背に手を回す。慰めるように、詫びるように背を叩くと、耳元で鼻を啜られた。こぼれ落ちる溜め息を飲み込み、濡れた髪をかき混ぜた。 「ただいま」 「…おかえりなさい」 とりあえず。うちの実家の肉じゃがは豚肉だし、ここは俺の部屋だし、だからそう簡単には出ていかない。その辺から話しておけば、きっとしばらく家出のような真似をせずに済むだろう。説く為のセリフを頭の中で整理するすぐ側で、同居人の腹の音が小さく響いた。

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