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泡沫

「それでは。明日は普段よりも早く起こしますからね」 「ん、」 「一度目で起きてくださいね」 貴方は全く寝起きが悪い。普段と同じように小言を口にしかけて、止めた。何も今日のような夜までそんな事を垂れる必要も無いだろう。だが、明日からはそれも叶わなくなるのかもしれない。思い至ってはやはり口を噤む。こうして寝室の前に立ち、翌朝の事や就寝の挨拶を告げる日々は、今日終わる。 明日の夜から、その役割はこの人の妻になる人が行うのだろう。傾き掛けた財閥の一人娘。まだ二十歳にも満たない女性は果たしてこの人を上手く盛り立て、従えるのだろうかと漠然と思う。その役割もまた、自分だけのものであった筈だった。 「…臣、」 「はい。なんですか駿介さん」 「…目が冴えてしまっている」 傾き掛けた財閥の当主に指名されたのか、それともこの家が差し出したのか。ともあれ、婿養子として迎えるに辺り、かの家はこのぼんやりした三男坊で果たして良かったのだろうかと甚だ疑問に思う。人あたりの良いだけの、陽だまりの様な青年にこれまで縁談が無かった事の方が不思議だと周囲は言っていたが、何のことは無い、生まれた時から傍に仕えていた自分が選り好みし、遠ざけていただけの話だ。 今度ばかりは互いの当主の意見が合致した。自分は手も口も出しようが無かった。 この人は明日、人のものになる。 立ったままぼんやりと臣を見上げる駿介の目を見ては浅い溜め息を吐き出す。甘え切った口調も目も、幼少の頃と殆ど変わっていない。 十五の時に仰せつかった子守りはやがて世話人となり、そして気付いた時には側近になっていた。あれから二十五年。ーー在り続けた想いに気付いたのも、その想いを口にする事も、何もかもが遅過ぎた。 「…白湯でも持って来ましょうか」 「…要らない。臣、」 指が、手を引く。もう少し話をしよう。それは幼少の頃に生まれた合図だった。眠れないと愚図る夜、幾度も傍で何ともなしに話をした。甘える手が寝台に向かう。臣は、黙ってそれに従う。 「寝坊しますよ」 「臣が起こしてくれるから」 甘えた声音を鼓膜に染み込ませ、刻み付ける。 在り続けた想いは今夜死なせなければならない。 せめて今夜想いを遂げようなどとは今更想わない。 自分はこの人を護り、育て、仕える事で意味がある。そして同時に、自分はこの生き方しか知らない。 燻り、抱え続けた想いを遂げる術も、その後どうするべきかという事も、自分は知らない。 だからーー後悔などしようがないのだ。 「…明日からも、」 「はい、」 「……間違えた。明後日の朝も、臣が起こしてくれるから」 「ーー…」 甘ったるい声。自分を信じて疑わない眼差し。繋いだままの指。 この人の全てが、自分の想いを死なせない。 微かに指に力を込めた。辿り着いた寝台の上、この男を組み伏せてしまえたのなら。 自分は、きっともう、この想いごと死んでも良い。 「…明後日からは、奥方が起こしてくれるんですよ」 「……うん、」 伏せた睫毛の一つまでが愛おしかった。 「俺は、…明日からも貴方の側にはいますから」 今とは違う距離に立つ貴方。 貴方に対するこの想いを抱けたことが、きっと自分の幸せなのだろう。 「…うん、臣」 違った距離で、日は続く。 だから、死なずに生きて行こうと思った。

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