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グローリーデイズ
「なあ。眠たくなってきちゃったな」
遅い桜が咲く地方都市で催された入社式、隣に座っていた男は突然、樋山にそう耳打ちした。壇上には支部長だという男が立ち、もう十分近く訓戒を述べている。それでも出席する新入社員達は飽きた顔など出来る筈もないとばかりに微動だにしていなかったから、空気はきちんと張り詰めていた。
その張った空気を微かに揺らすような耳打ちに驚いた樋山はぎょっとした顔で男を見遣る。その反応に一度は驚いた目をした男は、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべた。な、と尚も同意を求める男の姿を思わずまじまじと眺めた後、樋山はふと目を瞬かせる。どうしたものかと口元に指を当てた後、そっと男に耳打ちを返した。
「…あのさ、」
「ん?」
男のぱりっと糊の効いたスーツの裾を目で辿る。パイプ椅子の座面に触れる箇所を指さした。
「仕付け糸、付いてるよ」
「えっ、あ、」
初めてスーツを着た訳では無いだろうに——。恐らく入社式用に用意した一張羅を指摘され、慌て、そして照れてはにかむ男の笑顔に、無い筈の母性本能が擽られた。
喧騒にも近いざわめきの中、座敷での宴会の席に座りながら樋山は遠い席にいる小佐田を眺めていた。
二十三になる年の春に出会ってから丸七年。付かず離れずを装ってきた同期の本社への栄転が決まった。春は別れの季節だ。有り触れた言葉で自分に言い聞かせ、グラスの中のビールを煽る。
人懐っこくて、どこかそそっかしくて、そこが人望に結び付き、誰にでも可愛がられる。同じように仕事をこなし、成果を上げていた自分と小佐田の分岐の違いはそこだろう。人見知りで、打ち解けることに時間がかかり、口下手な自分を地方に残し、小佐田は来週都会に向かう。
七年間も物持ちよく温めてきた恋慕を伝える術は送別会の今日になっても見つけられなかった。母性本能だと思っていた感情は恋だった。そこに気付くまでに時間がかかり過ぎた。そして、気付いた時には小佐田には可愛い彼女が出来ていた。ただ、それだけの事だった。
相変わらず人に囲まれ、支部を離れることの名残を惜しまれている小佐田は腰を上げる暇が無い。これは自分がわざわざ立たなくてもビールを注ぐ人間には事欠かないだろうと樋山は席の隅でぼんやりと厚焼き玉子を摘んでいる。だが、目線だけは無自覚の未練が小佐田から離してはくれない。短く刈り込んだ爽やかな短髪から覗く綺麗な形の額を眺めていると、雑然とした空気を真っ直ぐに縫ったように視線がかち合った。ほんの偶然だ。慌てて目を逸らした樋山は、手酌で注ぐためのビール瓶を持ち上げた。
「よ。ここは俺が」
何を言って立ち上がり、何処をどうやってここまで来たのか。耳慣れた声が震ってきたかと思うと、瓶に添える指が捉えられた。空いている隣の席に樋山が腰を下ろす。少し皺の出来たスーツのセンターベントの裾が畳に伸びていた。
「…良いよ。自分で…」
「最後なんだから。こういう時位しか樋山にそそいだりしないじゃん。あ、これ温いな」
林立するビールの瓶から少しでも冷えた物を選んでから樋山へと注ぎ口を向ける小佐田は今日も無防備であけすけだった。 どれだけ経験や年齢を重ねても、この笑顔だけは変わらなかった。檜山はそれが羨ましいし、愛おしいと思っていたが、そのどちらも口にする事は無い。
ビールをグラスに注ぎ終えた小佐田に、ごく小さな会釈をしてから少しグラスを傾ける。その横顔を満足気に眺めた小佐田が、不意にどこか神妙な顔をして樋山に膝頭を寄せた。
「あのさあ、樋山にだけ言ってから行こうと思ってたんだけどさ、」
「……何…、」
ん、と決意を固めたように頷き、ちょいちょいと指先での手招きを寄越す。訝しげに眉を寄せた樋山とは対照的に、耳打ちする小佐田の目元はもう嬉しさに緩んでいた。過ぎる嫌な予感に耳を遠ざけるよりも早く、小佐田の呼気が樋山の外耳を擽った。
「俺さ、カノジョと籍入れるよ。あっち行く前に」
「——…、」
瞠目が小佐田を見詰める。小佐田と似たような性格の、からりと快活な女性を紹介されたのはもう何年前のことだったか。指を折って数えるよりも先に小佐田は居住まいを正して照れ臭そうに眉を下げた。
「こっちにいるうちに籍入れちゃった方が何かと良いかなと思ってさ。樋山には言っておきたいなと思って。言えて良かった」
——だとしても。
そうだとしても。
「…今、」
今そんなこと言うなよ——。
呆然としながらも、既のところで飲み込んだ。グラスの中に満たされたビールを煽り、大きく息を吐き出す。
人懐っこくて、誰にでも好かれて、そそっかしさ故の些細なミスを帳消しにしてしまう人柄の小佐田。その小佐田に負けないことと言えば、感情や抱えた思いをすぐには露にしないことだ。それは果たして良い事なのか悪い事なのか。
「…そっか、」
うん、と頷く無邪気な横顔を視界の端に腕時計に目を落とす。ぼちぼち一次会はお開きだろう。二次会までは行くだろうから、勝負は三次会だ。ビールの酔いが回ってきた。そうだ。自分は酔っている。
「おめでとう。小佐田」
「ありがとうな、」
別離まであと数時間。
今の告白は、小佐田にとって——自分にとって何処に転がるか。
あと数時間。自分にも、酔って理性を無くして思いの丈を告げる権利くらいは残されている筈だ。
この土壇場で今そんなことを言う方が悪い。柄にもなく足掻こうと思わせたお前が悪い。
「…なあ。小佐田、」
口元に手を寄せ、耳打ちのポーズで小佐田を呼ぶ。疑うことを知らない同期で同僚だった男が、擽ったそうに目を細めつつ自分へと耳を向けてきた。
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