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初恋をうたえ。

まだ少し乾いた空気が残る晴れ渡った空の下、やはりまだ残る雪の塊の上に置き去りにされた野球ボールを見付けた。少しずつ柔らかくなってきた春の風に吹かれながらボールを拾い上げ、一度手の中で放る。頭上では、春を告げる鳥が軽やかに鳴きながら飛んでいった。 「やろうぜ」 土埃が軽く舞い上がるグラウンドを見渡していた紘(ひろむ)に駿人が声を張る。手にしていたボールの形や色が、酷く懐かしいものとして紘の目に写った。 十五年前に同じ場所でしたキャッチボールとは異なり、素手で放られるボールを紘が音を立てて受け止める。この中学校で三年間取り組んだ部活を引退した後は紘は野球をしてない。駿人は地元に一つしかない高校に進学した後も野球を続けていた。甲子園など夢のまた夢のような部活だったが、駿人はいつも楽しそうにグラウンドを駆けていたことを覚えている。 紘の手が山成りにボールを投げる。キャッチした駿人が戯れに足を上げて振り被る。駿人が羽織った黒のスーツの裾が砂埃の中に揺れた。 互いに、黒い衣服を着てきたのは偶然にしか過ぎない。駿人はまるで喪服のような黒のスーツに白のシャツだった。紘もまた、濃い色のパンツに黒のジャケットを合わせてきた。今日この場所に来ることを決めた時、着るものはすぐに頭に浮かんだ。 また一つ強い風が吹き、背後にある校舎の窓ガラスが音を立てた。振り返って見ると、割れたままの窓ガラスから汚れたカーテンがひらひらと揺れていた。あれは確か理科室があった場所だろう。当たりを付けてまた駿人を見遣る。受け取ったボールを、先程よりも強い力で投げ返す。 「お。いい球」 はしゃぐ駿人の笑顔に無意識に双眸を細める。彼は今日の遠出を妻に何と言ってきたのだろうか。軽装でやって来た所を見れば、今日中に帰宅するつもりだと予想がつく。日帰りならば、帰りの汽車の時間までに駅に戻らなければならないだろう。この街の駅には、日に二本しか汽車は停らない。 風が吹く度に、雪解けの水を吸って伸びつつある雑草が音を立てて波になる。遠くでは相変わらず小鳥が鳴く声がしているが、それ以外の音は聞こえない。山間の、小さな街だ。 「なあ。雑貨屋のじいさんていつ死んだんだっけ」 「知らねえ。俺が最後に帰ってきた時には店はあったぜ」 部活の帰りに寄り道をすることが決まっていた店を指しているということは改めて聞かなくてもわかる。学校の側にあった、ともすれば、賞味期限すら怪しい食品だとかを置いていた店は雑貨屋らしく文房具や教材なんかも取り扱っていた。あの店の三代目だと言っていた男は、いつ店を閉める決断を下したのだろうかとぼんやりと思う。 「なんも無くなっちまったなあ」 「な、」 雑草に囲まれ、幾度もボールを行き来させる。十五年前に幾度も行ったやり取りが鮮明に蘇る。同時に、胸に込み上げようとする想いに気付いた紘は内心で小さく苦笑した。 「…なあ、俺さぁ」 「んー?」 もうここで、この場所でこうしてキャッチボールをすることは無い。二度とは戻らないグラウンドでの日々も、今のこの時も、決して元には還らない。掌の中のボールを、今度は力一杯放った。 「お前のこと、好きだったよ」 あの頃。告げられるはずもなく、持て余していた感情が蘇る。叶わぬと知っていた思いを、ひたすらボールやバットにぶつけていた。 だが、それも今日ここに置いていく。その為に自分はここに来た。 三月の末の風が吹く。山間の、小さな街の、だだっ広いグラウンドを春風が撫でていく。古びた校舎の割れたガラスも、軋むフェンスも、伸び始めた雑草も、もう開く事のない雑貨屋の扉も、全て春風の中で眠りに着く。 明日、この街はダムに沈む。 ボールを確かに受け止めた駿人が不思議そうに首を傾ける。嬉しげに口元を緩め、地面を蹴って砂埃を巻き上げ、手の中のボールを紘へと返した。 「俺も好きだよ。駿人のこと」 「……、うん、」 受け取ったボールを握り締め、紘は笑う。目に入った砂埃を取る為に目の下を拭うと、覚えのない水滴が指の背に着いた。

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