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ひとひら。
親の転勤なんて有り触れた言葉の前で、自分達はあまりに無力だった。
一人暮らしする、という十七才の少年のささやかな抵抗はあえなく却下され、数日前にその事を報告した深陽(みはる)は今拗ねたような眼差しで車窓の向こうを眺めている。空いている電車の4人がけのボックスシートに向かい合って座り、その横顔を密やかに見つめる悠晴の目に、深陽の口が小さく「あ」の形に開かれる様が映った。
子犬のように丸く、勝気な瞳が瞬く。窓の外、遠くの景色の片隅に、暗く波打つ海が見えてきた。
海に行こうぜ、と提案したのは深陽の方だった。季節は1月の終わり頃、真冬の教室のざわめきの中、口にした後でいかにも名案だと言いたげに深陽は胸を張っていた。
「なあ。なんで海なんだよ」
電車から降り、コートの肩を並べて雪を踏んだ。あまり来ることの無い街は地元よりも雪が深く、坂道が多い。ブーツの底で新雪を踏む傍からちらちらと小雪が舞っては積もっていく。もうじき視界の向こうに海岸が開ける筈だ。白い息を吐きながら、悠晴は深陽を見やった。
「夏にさ、来たじゃん。昨年」
深陽が示すことは、概ね予想がついていたような気がする。昨年の夏、学校祭の打ち上げと称して大勢のクラスメイトと一緒にこの道を歩いた。家から持ち寄った道具を抱え、大騒ぎしながら砂浜で焼肉の火を囲み、夕方まで飽きることなくはしゃいでいた。深陽も悠晴も、恐らく今、同じ記憶が頭の中に描かれている。
「あれ楽しかったんだよね。だからもう1回海見たいなって」
もう一度同じことをするにはあまりに季節が違う。だが、今年の夏、昨年と同じことをしたいと願っても深陽はその場にはいない。今年の三月、終業式を終えた後に深陽は遠い南の地方へ行く。
そっか、と頷く悠晴の目の前が開けた。電車の窓から見た通りの薄灰色の海が冬の風に晒されて波打っている。寒々しい光景に改めて肩を震わせるも、深陽はどこか眩しげに水面を眺めていた。
来年もやろうぜ。
打ち上げの後、髪の雫を払いながら笑ったのは他でもない深陽だった。同じ季節に、同じメンバーで。叶わぬ願いに不意に胸が苦しくなる。そんな悠晴を置いて、深陽は雪を踏んで波打ち際へ向かって駆け出した。
「やっぱ寒ぃなー!」
「…当たり前だろ…」
海に来た時の決まりごとのように叫ぶ深陽の背で大きなリュックサックが弾んでいる。一方で小さなボディバッグ一つを背に下げただけの悠晴がようやく小さく笑った。
深陽は数歩戻ってきたかと思うとおもむろにリュックサックを下ろし、中から何やらごそごそとビニール袋を取り出す。膝に手を当てる形で屈んだ悠晴を見上げてにんまりと笑って見せる深陽の手には、この季節にどこで調達したのか小さな花火セットがあった。
「夏に来た時出来なかったから。今日やろうと思って」
「…お前ほんと、…バカだろ」
呆れて呟く悠晴に、深陽は知ってる、と唄うように返す。
夏の打ち上げの終わりは、突如降り出した夕立によって締め括られた。せっかく用意した大量の花火は出番を失い、雨宿りの出来る場所が無いこの浜辺から、全員で駆け出し撤収することとなったのだった。
花火を一本手にし、片手で無造作に雪の上にロウソクを指す。安定はしているが、火がつくかは怪しい。真剣な眼差しで掌で庇を作る深陽に鼻から息を抜き、しゃがみ込んだ悠晴が同じように百円ライターの火を掌で庇う。ようやく辛うじて灯った火に深陽が花火の先端を近付けた。
しゅっ、と音を立てて火花が散った。顔を上げると同時にロウソクの火は役目は終わったとばかりに消えてしまったが、深陽ははしゃぎながら雪の上に足跡を作っていく。
「なあ!ゆーせい!」
まだ残る花火を見下ろし、そして海を見やった悠晴に深陽が振り返る。なに、と少し声を張った悠晴へと向けられる笑顔が、雪の中に眩しく弾けるように見えた。
「十年後!十年後にさ、またここ来ようぜ」
「……十年後、って」
いつもの気紛れな深陽の思い付きは、今は途方もない夢のように思えた。
十八になっている来年の今頃のこともわからないのに、十年後の事などわかるわけが無い。
冬の海。冬の花火。夏と同じような深陽の笑顔。
それらが全て、十年後の夢と同じ性質を持った夢のようなものだという気がする。今ある現実は、互いの目の前にある白い息と絶えることのない波の音だけなのかもしれない。だったら、この現実のまま時間が止まってしまえば良いのに。悠晴はほとんど呆然としたように立ち竦んでいる。
「俺、十年後も会いたいよ。悠晴と。十年経っても、十年後も友達でいようぜ」
「……うん、」
今あるこの時間が現実であるのなら、深陽が口にする「友達」という言葉も現実なのだろう。今時間が止まったのなら、自分達の関係も永遠に友達のままで変わらない。
それならそれで構わない。
暖め続けた恋を告げる時が来なくても、深陽が遠くに行ってしまう時が来るよりはマシに決まっている。
深陽の手元の花火が消える。それを知ってか知らずか、深陽は悠晴の返事を待っている。背後に、暗い冬の海を背負ったまま、期待に満ちた目で待っている。
「絶対だぞ」
「うん!」
「…じゃあ、約束な、」
約束、と口にされた深陽がなんの躊躇もなく悠晴へと歩み寄っては小指を差し出す。子供のままのようなその動作に戸惑った間を置き、悠晴がコートのポケットから手を取り出す。
触れた酷く冷たい深陽の小指は、確かに今この現実にあるものだと思いながら、離れぬようにと緩く繋いだ。
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