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君と羽と。

わざわざ半休を取ってきたと知った彼は楽しそうに笑った。目尻に出来る皺を斜め下から見る。ほんの少しだけ色素の薄い髪の毛先が外耳に乗っている。知った土地で髪を切っていけば良いのに、と思ったがもう手遅れだ。 平日だと言うのに相変わらず人の波が行き来する出発ロビーでなんとか二人分の空席を見付けて腰を降ろした。彼は手荷物はビジネスバッグ一つだけだと掌を振って見せる。必要な物はもう引越しの荷物に収めて送ってしまったらしい。 他愛の無い会話を重ねながら、呑気な彼の代わりに落ち着かない心持ちでちらちらと腕時計を見ていた。搭乗時刻までの時間はそう長くはない。ーーあまり長い時間を費やしたくはなくて、わざと際どい時間に見送りに来たことは言わなくても良いことだった。 本部に行くんだから栄転なのかな。 他人事のように呟いた彼とは、三年程の付き合いで、そのうち一年間程の間に数回セックスをしただけの仲だった。 ただの同期の気まぐれとするには回数は多いとは思ったが、生来細かいことを気にしない性質の彼は自分の他にも関係を持っている人間はいたし、自分との関係もそのいくつかの関係の中の一つで、ごく軽く考えているようだった。 出張で何度か訪れただけの街に行く彼は、別の土地でもまたそんな風に新たにーー多岐に渡る種類の人間関係を築くのだろう。自分の事など頭から無くなる。 だから、ーーだと気付くことも、自覚することも避けた。避け続けた。 果たしてそれは。 その判断は、きっと間違いじゃない。 時計の針が動いた。何も言わずに立ち上がった彼が、何を思ったのか手を伸ばす。訝しげに見上げる自分の手を勝手に取ると、軽く引っ張ることでひょいと体を浮かせた。 「ありがとな」 「…何が…」 「見送り。やっぱり一人くらいは見送りに来てくれないと寂しいだろ」 呑気な目尻が笑う。寂しいと口に乗せる彼はきっとそんなことを微塵も思っていない。新たな土地での暮らしに踊る胸を携え、やがて自分のことなど忘れ、この時間も消えていく。 寂しいのは俺の方だ。 それを口にしたのなら、今までの全ては壊れるだろうか。それとも彼に消えない痕跡を刻むだろうかと考えたが、そのどちらでも無い気がしてやめた。彼は頓着しない。自分にも、過去にも、この土地にも。 「まあ出張とかで俺が帰ってきたりお前があっちに来たりするだろうからさ」 握ったままの手を戯れに振る。おもむろに、耳の側へと唇が寄せられた。 「そしたらまた、やろうぜ」 「…ばーか」 口を尖らせた自分に目を細め、手が離れていく。自分は通ることの出来ないゲートへと向かって行く背をそっと追った。よく見慣れたスーツがゲートの近くで一度振り返り、じゃあなと大きく手を振ってからすぐに見えなくなった。 一人になった途端に空腹を思い出した。せっかく羽田くんだりまで来たのだからといつも出張の時に立ち寄る蕎麦屋で蕎麦を啜った。 帰り際、相場より高い会計を済ませると愛想の良い店員が釣り銭を渡しつつにこりと笑った。 「行ってらっしゃいませ」 行くのは。 この地を離れ、どこかに行くのは自分ではない。 思えば自分は彼に行ってらっしゃいとも行くなとも行かないでくれとも言わなかったし言えなかった。言いたい感情はそのどれでもなかった。 彼の言うように「また」があるのなら。 きっと自分はその時もまた、どの感情も口には出さない。空港に置き去りにされた感情を拾ってしまったからには、彼が意地悪く残していった期待と共に大切な場所にしまいこんで抱えていく。 「…おかえりくらいは…言えっかな」 店を出ると、ガラス窓の上に薄曇りの空が広がっていた。口の中で呟いた瞬間だけ、ほんの少し泣きそうになった。

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