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書生として家に入れていた若い青年が町外れの池に入水して死んだ。 線の細い青年であったが、行方を眩ませてから三日、池から引き上げられた遺体は見る影も無いものへと変わっていた。 夏の暑い時期であった事と、生家や両親の類を捨てて自分の元へと来たのだと言っていた事を思い出して、簡素ながらも早々に葬式を出した。彼と私の関係が只の師弟の域を越えていた事は、ささやかな葬式の参列者は誰も知らない。 文筆家としての才能の無さを憂いた末の身投げなのだろうと他の書生や近所の彼を知る人間達はそう噂し、不幸な自死を嘆いたりしていたが、私はと言えば夏の始め、私が親類から勧められるままに会ったお嬢さんとの結納が決まった事が頭を過ぎった。それは彼の身投げの遠因としてあったのだろうかと考えもしたが、確かめようの無いことは考えない主義なので、引っ張り出した喪服を汗抜きし、再びしまい込んだ時に箪笥の中に一緒に収めておくことにした。 その二週間後、結納を間近に控えた婚約者が町の外れの池で溺死した。 最後に娘の姿を見た者によると、夕方頃にふらふらと家を出て行ったとの事で、他に外傷らしき物も見当たらず不慮の事故だという事で片付けられた。 私は再び黒の喪服を引っ張り出しながら、それ程情が湧いていない頃で良かった等と不謹慎な事を思い、通夜へと出向いた。周囲の憐憫の眼差しは多少なりとも刺さってきたが、彼らもまた、所帯を持つ前で良かったと思っているようで、自分も世間も死した者には思う程気を払わないものなのだなと感じた。人は、死した者よりも遺された人間へと情を傾ける。 お寂しいでしょう。僕に、慰めさせてくれませんか。 二人の喪が開けないうちに元々長く住み込んでいた書生と寝たのは更にその一週間後だった。自分に向けている眼差しの中に滲む好意と、その奥の奥に潜む、傷心だと思われる自分に付け込む青い狡猾さが気に入り、一度だけ同衾した。 その男の葬式に出る事になったのは、三日後の事だ。 彼は少なくとも、先に自死した青年よりは文才があった。小さな出版社に声を掛けられていた筈だった。 真夏の盛り、立て続けに三人の溺死体の葬式に出席する私の喪服は休む暇が無い。夏の盛りに見目にも暑苦しい黒を着ることに辟易し、流石に夏用の礼装を作ろうかな。ほんの冗談のつもりで呟いたが、出入りの女中はそうは取らなかったらしく、気味が悪いと言いながら少し怒った。 蒸し暑い夜の事だった。 庭先で何かが動く気配を感じて目が覚めた。 肌掛けの中で横臥し、庭の方を見遣る。雨戸の隙間から見える明け方の薄く青い空が今日も暑くなる事を伝えているようでうんざりしたが、私は不意に直感する。 彼が来ている。 三件の葬式の一番始め。樟脳の匂いのする礼服を纏って出した葬式の主役。 起き上がり、寝巻きのままで縁側に向いた雨戸を開ける。寝起きにしては妙に冴えた頭で彼を弔ってから何日経ったかを数えた。まだ四十九日も経っていないのかと思いつつ、朝靄の庭を見渡し目を凝らす。丁度池のある方向に、彼はぼんやりと立っていた。 「君か。どうした。こんな明け方に」 思いの外明るい声が出た。 何処か嬉しげな響きを持って声を掛けられた青年は、それだけで酷く満足そうに笑い、緩く首を傾けた。その相貌は、私が最後に見た彼のものではなく、生前の線が細いながらも良く整った彼の物だった。 「だって先生、来てくださらないから」 やはりそうか、と思ったのはたった今だった。 湿気を含んだ重たい空気が体にまとわりつく。この空気は暑さの所為だけではあるまい。彼が運んで来た池の水だ。 「来て欲しかったのか」 「ええ」 「だから、」 だから、自分に触れた者を連れて行ったのか。 怪異等をまともに信じた事は無い。目に見える物だけが確かだと思いながら生きてきたが、三度目に喪服をしまい込んだ時に感じた予感が今目の前にある者に正解だと云われているのだから、信じるしかあるまい。 身投げした後を追って来る可能性が低いのならば、自分に触れたーー情を絡めたと思った者を片っ端から連れて行けば、いつか自分も来るだろうと思ったか。 棄てられ、傷心の上で身を投げたわりには悔いが残ったか、それとも元々備わっている業の深さや執念深さか、はたまた健気さの類なのかーー。 「ーー生憎、あの女とも、あの子とも、君程は情を絡ませてはいなかったよ」 「ーー…」 目の前に立つ彼の事ほど、私は彼女の、あの歳若い青年の事を知らない。 何事にも執着をしない自分が深く情を傾けたのはこの青年一人だ。伝えていたつもりが伝わっていなかったのなら、言葉を繰る文筆家という肩書きはただ笑わせるものでしかない。随分可哀想な事をした、と思うのは、この期に及んで彼に対してだけだというのに。 「その証拠に、葬式で泣いたのは君の時だけだ」 見てただろう。目で言い、笑ってみせた。 一書生を失った自分を慰めようとした婚約者も若い男も、欠けた穴は埋められなかった。そもそもその欠けた部分を自覚したのも、三件目の葬式の帰りの事だ。師弟の関係を越えた彼への思いは、自分が思うより深く自分の中に根を張っていたらしい。 彼は一度呆然としたように佇んで、また嬉しそうに破顔した。なあんだ、と唇が動いた気がした。何かが晴れたように湿気の篭った空気が消え、霧が薄くなる。 「先生は、失恋したのですか」 「そうだよ」 君に。 夏の盛り、勝手に逝った君に。 恋を失ったのは、君ではなく、私の方だ。 「ーーだから、」 裸足のままで庭先に降りる。 よく見ると微かに宙に浮いている彼との距離を詰める。胸に湧くのは恐怖心などではなく、開いた箇所を埋めるような熱だ。 何も二人も殺さなくとも。 苦笑する私を不思議そうな眼差しで見た彼が、躊躇することなく、待ち侘びたように手を差し出した。

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