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ラストイニング

引退したら付き合ってよ。 黒瀬の一世一代の告白にそう返事をした白河と初めて手を繋いだのは祭りの夜店を眺めている最中で、その夜にはもう、神社の暗がり、人の目も夜店の電灯も喧騒も届かない場所で初めてキスをした。 街の祭りからの帰り道、手を繋いだままの白河がぽつりと呟いた、今日俺の家、親いないからという言葉を、黒瀬は何処か宙に浮くような気持ちで受け止めた。 「ねえ、」 身体の中に留まったままの熱と、クラスメイトに、それもついさっき付き合い始めた相手に身体を暴かれた羞恥心が退かない身体を投げ出したままの黒瀬を見やった白河が緩く首を傾けた。制服のポケットから覗いた煙草の箱に向けていた目は黒瀬の脇腹の痣を見下ろしている。さして興味も無さそうな眼差しで煙草を強請った白河を、黒瀬は断った。白河に煙草は似合わない。 「黒瀬くんは、どうして喧嘩するの?」 さっき不器用に唇を寄せた痣から、脛の切り傷に視線を動かす。三日前、他校の生徒と小競り合いをした痕跡は瘡蓋が乗っていた。 「どうしてって」 野球ばかりしてきた白河に、喧嘩ばかりしてきた自分はなんて説明すれば良いのだろう。まだあまり上手くは回らない頭で考える。黒瀬を外れた道に誘った先輩は売られた喧嘩は買うものだと言っていた。それがヤンキーの理屈だということはよくわかっているつもりだから、白河に通用するとは思えない。 「…負けたくねえから、」 起き上がり、白河が1階から持ってきたミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開けて口に寄せる。汗をかいたボトルの冷たさが心地よかった。 潤した口で呟いた黒瀬に、ふうんと1度頷いては何かを考える。じっと自分の手の甲を注視していた白河が不意に納得したようにもう一度頷いてから立ち上がった。 「俺、絆創膏持ってるよ」 「…いらねえよ」 下着1枚だけの姿で部屋の隅に大切そうに置かれた大きなバッグへと歩み寄る。その校名が大きく書かれたバッグを白河がもう2度と使わないことを、黒瀬は数時間前に知った。 「良いから。…もう、滅多に使わないし」 勿体ないからね、と自分に言い聞かせるように呟きながら黒瀬の元へと戻った白河が絆創膏の紙を破る。慣れた手付きで、それでも丁寧に黒瀬の脛の傷に絆創膏を貼り、満足げに目を細めた。 「…今度からさ、」 他にどこか怪我は無いだろうかと黒瀬の相貌を眺め、前髪の生え際、眉間の上の小さな傷に指先で触れようとする。反射的に身を退けた黒瀬に小さく瞠目し、また絆創膏を手に取った。 「俺が治してあげるよ。黒瀬くんの怪我」 珍しく朝から下校時刻まで学校で過ごした日の放課後のことだった。 そんな黒瀬の姿を予め確かめていたのか、沈む心の何処かで黒瀬との約束を思い出したのかはわからない。とにかく白河は、黒瀬の下駄箱の前で制服のままで立っていた。 「なんで、ここにいるんだよ」 野球部の練習はとっくに始まっている頃だろう。困ったように佇む白河への黒瀬の印象は、ユニホームを着て白球を追い掛けているそれだったから、好きになった相手だということを二の次にして黒瀬は驚いた。こんな時間にここにいる理由は無いはずだ。 「…あのね、…黒瀬くんと、一緒に帰ろうかなって」 戸惑う黒瀬と、それがごく当たり前だというように肩を並べる白河は夏に差し掛かるこの6月の半ばに急に付き合えるようになった理由をぽつぽつと口にした。 自分はセンターを守っていたこと。 フライを追いかけて、フェンスに激突したこと。 上げていた右肘は、フェンスに砕かれてもう元の様には動かないこと。 夏の地方大会に向けて、もう少しでレギュラーを取れそうだったということ。 それは、もう1ヵ月以上前の出来事であること。 もう半分治りかけているこめかみの傷に絆創膏を貼る手のひら越しに白河の顔を見る。 自分との約束を思い出してくれた白河は、もう勝つことも負けることも無い場所に来てしまったのだろう。 放課後、数時間しかいなかった学校から出た後に気まぐれに覗いたグランドの中、真摯な眼差しでボールを追い掛けている姿に恋をした。 自分と違う理由で、自分と同じように怪我をする白河の傷が眩しかったことを思い出す。 本当は。 「…俺だって、…治してやりたかったよ。白河の、ケガ」 本当は、付き合う時期なんて先延ばしになっても良かったのに。 本当は、今自分に触れているその手で、白球を掴んでいる姿を見ていたかったのに。 拗ねたように零した黒瀬の声に白河がまた目を見張る。その後、微かに目尻が震えたかと思うと、汗とは違う水滴が黒瀬の大腿にぽつりと落ちた。

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