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Hello,Hello.

生まれるのが1年遅ければ良かったのに。 校舎の裏、用具箱の側はどこの窓からも見えることの無い死角だった。いつもの場所から見上げた空は薄曇りで、風は相変わらず冷たくて、卒業の日の門出を祝うにはあんまりだろうという気候だがこの地域の卒業式の日など毎年概ねそんなものだ。 4月からーー明日からはここで1人で過ごすことになる。黒田が来なければここに来なくても良いのだが、2人きりでいられるこの場所を誰かに譲ることも癪だと思う。自分もまた来年の今日にはここを去るのだが、先に去ってしまう影に追い付ける気はしなかった。 「赤星!」 耳慣れた声が春風に乗ってやって来る。今日くらいは来なくても良いだろうと思わず苦笑しかけるも、胸には安堵が広がった。息を切らせて駆け寄ってくる黒田はブレザーを着ていない。胸には飾っていたはずの花も無ければボタンはおろか、上着まで剥かれたような風体で、履き潰したローファーを鳴らして駆けてくる。その明るさが好きだった、と反芻すると共にこの物陰での出来事を思い出す。 「…追い剥ぎにでもあったんですか」 「ひどくね?全部剥かれた」 黒田はモテた。 男子にも女子にも、先輩にも後輩にも。 あれは人たらしだな、と先生の1人が言っていたことを思い出す。 上着無しではさすがに寒いと体を震わせて赤星へと距離を詰める。ここに来て自分に会うことが当然だと言いたげに笑いながら赤星を見上げた黒田の唇に触れたのは夏の暑い日だったと思い出す。 付き合っている、と札が下がっていたわけではない。ただこの誰も知らない場所でだベリ、手に触れ、キスをした。 幾度となく交わしたそれは、次に進む黒田の中ではきっと思い出のひとつになる。春の風に吹かれて別の街を歩く黒田の中の記憶の中に収まり、きっとやがては消えていく。自分のことなど、忘れていくに決まっている。 感傷的になる自分が嫌になる。生まれるのが1年遅ければ良かった。溜め息を飲み込む赤星の前に立った黒田がおもむろにごそごそとポケットを探っていた。 「ん、あげる」 ポケットから取り出したのはくるくると丸めたネクタイだった。今年の3年生のカラーの臙脂色は4月に入学してくる1年生のカラーとなる。赤星の学年は紺のネクタイを割り当てられているから、このネクタイを受け取っても仕方がない、と首を捻った。 「…なんで…」 「なんかさあ、誰かが言ってたんだけどうちの学校は第二ボタンじゃなくてネクタイなんだって。好きな奴にあげるの」 「ーー…、」 だから死守したんだぜ。 取った自分の手にネクタイを握らせ、屈託なく笑う黒田を見下ろした。この先輩は自分よりも背が低ければ、どこか自分よりも幼いところがある。ーーその全部が、好きだと思っていた。 「…そんな、…サラッと…」 「俺待ってるからさ。あ、時々は帰ってくるし。でも赤星のこと待ってるから。来てよ」 俺のところに。 それがさも当然だとばかりに穏やかに紡がれる声が春の強い風に舞ってどこかへ行ってしまいそうになる気がした。 その声ごと掴まえるようにネクタイを握り締める。頷くより先に身を寄せ、自分の影のかかる目元が細く窄まる様を見詰めながら唇に唇で触れた。 「…すごい勉強しなきゃじゃないですか」 来てよ。 その一言を握り締める。寒いからだと誤魔化すように鼻を啜り、それでもブレザーを脱いで黒田の肩へと羽織らせた。やはり丈は合わない。擽ったそうに笑う黒田に鼻から息を抜いた。 「今風邪ひくわけに行かないでしょ」 「ん、あったけえな。赤星の、」 「…汽車、いつの何時なんですか」 見送りに行きますから。 駅で会う自分達はどんな会話を交わすのだろう。 自分は1年先に追い付けるだろうか。 追い付いた先、この人は変わらずに待っていてくれるのだろうか。 不安と喜びが入り混じる。 さっきの言葉が春の嵐に吹かれて消えていないかを確かめるように、自分のブレザーの袖から小さく覗く黒田の指にそっと指を伸ばした。

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