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boogie-woogie Tokyo.
下町の方はよく焼けたからなあ、と「親切な」男は教えてくれた。東京に入ってから始めてまともに会話を交わした男はどこか怪しい風貌ではあったが、何を怪しいとするかの判断力が鈍る程に東京の街は雑然としていた。そもそも戦地から帰ってきた自分の判断力や倫理観もおかしくなっているぞと指摘されてしまえば否定は出来ないような気もしている。
浮浪児には気をつけな、とやはり親切に言い残した男は自分が差し出した煙草1箱を大切そうにしまい込みながら去っていった。支給品の中に入っていたものの、煙草はやらないから情報料として渡したが駅の側にあった闇市で売っても良かったのかもしれないと後になって気が付いた。だが金を手にしたところでどうする、と自問する。
帰って来られたのなら継ごうと思っていた時計店はすっかり燃やされて辛うじて骨組みだけが残っていた。ここらの人間はほとんど全滅だったよと教えられた瞬間、自分の帰ってきた意味は無くなったのだと晧は思う。支給品を詰め込んだ雑嚢が急に重たくなる。よく晴れた冬の空を見上げながら、残った石段に腰を下ろした。
「誰?」
溜め息を吐き出す前に背後から声を掛けられた。
かつての家に背を向けていた筈だったが、と振り返ると少年が1人立っていた。妙に小綺麗な服装ではあったが、伸び放題伸びた髪を後ろでまとめている。晧の姿を見ておかしいな、と言いたげに首を傾げた。
「…ここに住んでるのかい?」
「そうだよ。ここの家の人?」
確かに屋根に穴は開いているがそれは1部で、雨風を凌ぐには十分なのかもしれない。まるで自宅から出てきたかのようになんの違和感も無く目の前に現れた少年は勿論晧の知らない子だった。晧の姿をまじまじと見遣っては尋ねてくる。少し間を置いて、ゆるゆると首を振った。
「…ここに住んでるのなら、これをあげるよ」
背負ったままの雑嚢を降ろし、少年へと押しやった。中には必要な物は入っていない。軍が解散した時に支給された食料が幾許か入っている。少なくとも今の晧には必要が無くなってしまった。持ち帰ってやりたかった人間はいなくなってしまったのだ、
「お兄さんの分は?」
「…自分、…僕はもう要らないから。君にあげます」
「なんで要らないのさ」
穏やかな声で言含めるような晧の言葉に、雑嚢の紐を解いて中を覗いた少年の目がぱっと輝いた様子がわかった。それでもすぐに中身を取り出さない辺りにかつての育ちの良さを見たような気がした。
「僕があげたかった人はもういないし、僕も、」
ここに居たはずの人間がいないのなら、家業がないのならもうなんの意味もない。
死に損なった事は終戦を迎えた今となってはあまり大きな意味は持たないのかもしれないが、生きて帰った意味も無くなってしまった。
寂しげに目元に笑みを載せた晧を少年が怪訝そうに見つめる。
「お兄さんはこれからどこに行くのさ。どこに行くんでも腹は減るぜ」
「どこに、」
どこに行こうかなあ、と不意に途方に暮れる。
居る意味の無い自分はどこに行っても意味が無いだろう。有象無象のこの東京で生きていく気力はもう残っていない気がした。使い果たしてしまったのだな、と思っては少年の問いへの正答を探す。
「どこに行こうかなあ」
「行くところがないなら、ここに住んでもいいぜ」
結局思っていたことをそのまま漏らした晧に少年がひょいと片眉を上げる。ううん、と小さく唸った後に再び晧の上から下までを眺め、そっと差し出すように向けた。
「ーー…、」
「ここは俺ん家だけど、俺がそのうち建て直すんだ。ぶっ壊れたままじゃかっこ悪いし、そのうちここの家の人が帰って来た時にさ、家があったら困らねえだろ」
「……どうやって建て直すの?」
さもそうすることが当然だと言うように少年がさらさらと紡ぐ。虚をつかれた晧もまた、浮かんだ疑問をそのまま口にすると、少年はしばし困ったように眉を寄せて腕を組む。
「わかんねえけど。まず金がいるだろ。あと手に職も付けなきゃなんねえな。金が出来たら大工を頼んでもいいのか。先は長いけどさ、俺も東京も何も無くなったんだから、なんでも出来るんだよ。多分」
「なんでも…」
ふと見回すと、荒涼とした剥き出しの土地の上にぱらぱらと建つバラックが見えた。そこらで何かを煮炊きする香りがしている。どこからかラジオの音が聞こえてきた。1度何も無くなった筈の街から漂う家や生活、人生の匂いにようやく気が付いた。
何も無くなったということは、何かを積み上げる余地があるということなのかもしれない。その何かが今の晧にはわからないだけであって。
「…ここに、お邪魔しようかな」
「いいよ。お兄さんの名前は?」
立ち上がり、もう一度生家を眺める。表札があった場所は焼け焦げてしまっていた。嬉しげに破顔する少年を見下ろす。
「…晧」
「晧。よろしくな」
晧の雑嚢を担ぎ上げた少年が手を揺らして家へと招く。どこからか、誰かがうたう歌が聞こえてきた。
(Fin.)
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