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明治後期の洋食修行中の兄ちゃんと爵位持ちお坊ちゃん
雨の銀座で壊れた鞄から書類をぶちまけた男を助けたのはつい1週間程前のことだった。
ただの洋食屋の、それも見習いの自分にもわかる位に男の洋装は板についていたから一目で上流階級の人間だということはわかったが、家がすぐ側だからと言われて荷物を抱えて送っていった先の屋敷の大きさを見て腰を抜かしそうになった。
どうやら自分はどこぞのお屋敷の兄さんを助けたらしい、ということは理解したが、その屋敷には足を踏み入れてはいない。一旦家の中に入った兄さんが封筒を手に駆け寄って来る後ろからは使用人と思われる人間達が追いかけてきた。
封筒の中身を固辞した自分に男は困り果てたように首を傾けた後、いかにも妙案を思い付いたとばかりに目を輝かせた事を覚えている。
銀座の大時計が見える通りに覺は所在なく立っている。
あの雨の中で助けた兄さんーーー泰明と呼ばれていたーーーは覺の次の休みの日を聞き、じゃあその日に同じ場所、同じ時間で、と言い置いて爽やかに屋敷へと戻っていってしまった。無論覺の都合は聞いてはいない。
通りの向こうから背の高い洋装の男が歩いて来る。今日日洋装は珍しいものでは無くなっていたが、未だ着慣れない人間の方が多い。覺の方も一張羅のシャツとズボンを引っ張り出しては来たがどうにも首の辺りがきつくて仕方ない。それに比べ、泰明は身に合ったスーツを一片の乱れもなく纏っている。銀座を行き交う女達が嫌でも目を奪われ、視線を独り占めしながら自分のいる場所に向かって歩いてくる歩調はいかにも快活だった。
泰明の目が自分を捉える。先週雨の中では気が付かなったが、少し茶色がかった大きな瞳がぱっと輝く様が見て取れた。
嬉しげに手を振りつつ歩いてくる男は恐らく自分よりは年上だろう。子供のような仕草に噴き出したくなるのを堪え、覺は壁に預けていた背を外す。
「良かった。来てくれた。えっと」
「…覺」
「覺くん!この間名前を聞きそびれたね。教えてくれてありがとう。じゃあ覺くん。この間のお礼をさせてくれないか。何か食べたいものはある?覺くん」
忽ち距離を縮めた泰明は知ったばかりの名を幾度も連呼しながら立て板に水の如く話し掛ける。首1つ背丈の違う泰明はその様子を見上げつつ些か呆気に取られながらも、先週と同じように首を傾げる動作に旗と我に返った。
「…あの、お礼とか、いらね、…要らないですから。別にそんなつもりじゃ、」
自分はただお使いの帰りに遭遇した困っている人間を助けただけだ。小綺麗な男だとは思ったが、上流の人間だからどうということは無い。自分には関わりのない人種だ。下心など存在するはずもない。それなのに、お礼など受けたのなら下心があったように見えるだろう。ーーー誰にそう見られるのが嫌だとかいうわけではない。泰明自身が、厭うことだった。
そんなことを知らずにすっかり乗り気でいるこの男をどう説得しようか。覺が途方に暮れた目で見上げた泰明は、やはり同じように途方に暮れ果てたような目を覗かせ、そして悲しげに眉を垂れた。
「僕と食事に行くのは、嫌?」
「は!?そうじゃなくて」
「…今まで誰からも断られたことなんか無いのに」
少し掠れる声でぽつりと落とした泰明の目は、この間道端で見かけた野良犬の目に似ていた。店の残り物をやったら後を着いてこようとしたから慌てて追っ払った野良犬だった。野良犬ならば追っ払える。しかしこの男は野良犬なんかじゃない。それどころか。
「そういう…わけじゃねえ、けど」
「じゃあ行こうね!僕、1度街の洋食屋に行ってみたかったんだよ。覺くんは詳しい?」
覺の一言で輝く相貌を見上げて内心で溜息をつく。とりあえず自分が修業している店以外ならどこでも構わないーーー。頭を抱える暇も与えられず泰明は意気揚々と歩き出す。銀座の大時計が正午を刺して針が2本ぴたりと重なっている。よく晴れた空の上に輝く太陽は、今日この日はまだこれからと物語っているようで、覺は気付かれぬようにそっと溜息を吐き出した。
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