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性と青

使われていない用具室だというのに暖房だけは無駄に効いていた。学費の無駄遣いだよなと笑いながら松田が先に立ち上がり、ワイシャツの前を締める。古いソファーの上でやや放心状態だった竹野も軋むスプリングに我に返り、汗の滲んだままのシャツのボタンを留めた。 「またしようぜ」 床に放り出された紺のセーターを掴んで松田は竹野の額に唇を押し当て、そのまま部屋を出ていく。その動作や言葉があまりに慣れた様子で、竹野は放課後に入ってすぐに勇気を奮って好きだと告げた告白の返事もまだだという事にも気付かない。 下着と制服のパンツを拾い上げ、汗や体液を拭く術も無しに身に付ける。身体は帰ってシャワーを浴びれば良いだろうが、制服は洗濯に出さなければならないだろうか。母親に叱られる、と眉を寄せるも、さっきまで松田としていた事と制服を汚す事はどちらが悪いだろうかとぼんやり考えながらセーターを被る。袖を通すと妙に丈が長いような気がしたが、昨年から着ている学校指定のそれなら伸びても仕方がないだろうと1人頷いて部屋を出た。 廊下は人気が無い。響く声は部活で残っている生徒のものだろう。気怠い体を引き摺るように上靴を鳴らす竹野の前方から、更に気だるげに歩く生徒が1人やって来た。 同じクラスの生徒だ、とわかったのは彼の真っ茶色に染めた短い髪を目にした時だった。名前は確か梅原といったが、竹野と交流はない。というよりも、梅原はあまり学校に来ない。噂によると校外で不良仲間とつるんでいるとか、年上の先輩のグループに入って毎夜バイクでどこかに出掛けているとからしいが、その真偽は誰も知らない。窓から射し込む冬の夕焼けが耳朶の辺りに反射して光る様を見て、ああピアスを開けているんだなと思いつつさりげなく眺めた。 呼び出しだろうか、とぼんやりと考えつつあまり広いとは言い難い廊下で梅原と擦れ違う。少し怯えるように肩を竦ませた竹野を梅原はその性分故に無意味にひと睨みするも、不意に片眉を持ち上げた。 「…おい。ちょっと、」 低くドスのきいた声だった。そんな声を出される覚えも、声を掛けられる理由もない。心当たりがまるでない。竹野は反射的にびくりと身を震わせるも、その様子を一切気に留めていないのか、梅原は長身を折ってまじまじと竹野の左胸を眺めている。 「あの、」 「…これ、お前の?」 意外にも綺麗な指が竹野のセーターをちょんと摘んで引いた。 ただそれだけの動作にもびくびくと怯える目を覗かせる竹野の目を梅原は舐めるように見据える。恐怖と混乱が占める頭で慌ててこくこくと頷いた。 「違うだろ。これさあ、…松田のじゃねえか?」 「…え、」 梅原の目が怒気を帯びる。竹野はもう泣き出しそうである。誰か通りがからないだろうかと願ってみるも生徒も教師も訪れない。 松田、と名を出されて思い出すのはさっきまで身体中に触れていた手の平の熱さと、気だるさの要因である下肢の重たさだった。歩く様子や表情から何か気取られただろうかとまた慌てて首を振ってみるも、ふと自分のセーターの胸元を見遣る。そこに付いている筈の臙脂色の刺繍が違う。学校指定のセーターには校章が刺繍されていたが、今竹野が着ているセーターには何か知らない絵が縫い付けられていた。ーーー間違えている。先にセーターを拾ったのは松田だ。これは松田のーーー。 「ほんとか?松田のだろ。これ」 「ちが…違うってば!離して、」 思わず口にした言葉が嘘だったと気付きながらも身を捩って指を退ける。その後に、自分はこの不良と呼ばれるクラスメイトになんて態度を取ったのだと青ざめる。キレられるーーーつい反射的に目を瞑ってみるも、梅原は眉を寄せたまま振り解かれた指で後頭部を掻いていた。 「うん。違うよ。それ松田のじゃねえよ」 「……え?」 「俺んだから。それ、」 カマ掛けたんだよ。 梅原の言っていることはすぐには理解出来なかった。恐る恐る目を開き、長身を見上げると困ったようにも見える表情で梅原は首を捻る。 「この間松田とヤッた時に取り違えたんだよ。松田が。俺が松田のセーター持ってる。つうか今着てる」 「……、この間、」 「で、今日もアイツがお前のと取り違えてんだろ。あのバカよく見もしねえで拾ってくからだ。…行くぞ、」 淡々と向けられる言葉を整理する前に梅原が顎をしゃくって廊下の先を指す。その口が何かを言おうとしたが答えを拾い損ねて閉ざされる様を見て竹野は促されるように代わりに口を開く。 「あの、竹野、です」 「竹野。まだその辺に松田いるだろ。行くぞ」 不機嫌そうに歩き出す背が少し怒っていた。断る術は持たないが、断る理由も無いような気がして竹野は早足でその背を追う。見上げるセーターは松田のものだと思うと、胸に空虚の風が吹くようで、さっきまで火照っていた体もその風に一気に冷まされるような気がした。 ぱたぱたと鳴る竹野の上靴の音に振り返った梅原が眉を垂れた。 「お前のセーター返してもらう。その後に俺とお前で1発ずつアイツを殴る」 「……」 「松田はやめとけよ。いい事ねえぞ」 梅原は怒っている。だが怒っている対象は自分ではない。 徐々に理解する事が出来てくる状況に、自分は告白の返事を聞かないまま松田とエッチしたのだなあとぼんやりと思う。 それよりももっとぼんやりと、自分は梅原と一緒に松田を殴ろうかどうしようかと考えている自分に気付く。 セーターを2度も取り違えるような無神経な男は如何なものだろう。雑な神経は災いを呼ぶ。言われなければ気付かないようなセーターの違いに気付くこの梅原の方が余程神経が細やかだと思うと、真っ直ぐに前を歩く不良の背が不意に頼もしく見えて来た。

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