28 / 30

矜恃

「勘違いしてんじゃねえぞ!」 耳障りなダミ声が響いたかと思うと、更に騒々しい物音が周囲のビルの壁に当たって反響した。横っ面を思い切り殴られた、と感じるのは一瞬で、力任せに吹き飛ばされた体は積まれていた筈のビールケースに強かに打ち付けられたらしい。ガラガラと音を立てて崩れるプラスチックに舌打ちし、何とか踏みとどまった履き古した革靴の底をアスファルトに滑らせる。体をしならせ、サイズの大きいスーツの上着の裾を翻しつつ坊主頭を相手の男の顎先目掛けて振り被った。 西のケンカを舐めるな、と地面に唾を吐き捨てる。血と、ヤニの混ざり合う不快な口内を舌で舐め、喧嘩相手を睨めつけた。頭突きは上手く入ったか、鼻血を噴き出しつつもチンピラ風情は自分を負けじと威嚇する。 きっかけは何だったのかすら忘れるような小さな喧嘩だ。だが、互いに矜持がぶつかり合って譲らない。この歌舞伎町をシマとするチンピラと、歌舞伎町を我が物顔に闊歩することを目指して上京してきたヒロとのプライドの差など大きなものではないだろう。男をチンピラと称してしまえば、ヒロもそれと大差が無い。今ここにあるのは、互いにここで負ける訳にはいかないというプライドだけだ。 「大阪だかどこだか知らねえけどな、他所から来た田舎モンがでけぇ顔して歩いてんじゃねぇぞ!」 「…大阪ちゃうよォ?」 声ばかりがデカい、と顔を顰めようとしたものの、笑って見せた。地面を蹴り上げて砂埃を上げる。忌々しげな乾咳をする男の首元を狙って振り下ろした足は、男がよろめいた拍子に脇腹に食い込むことになった。 「岡山じゃ」 覚えとけ、と強い訛りで呟きながら細い目を更に細める。昏倒した男の様子を見遣り、背後に控えるように立っていた別の男が猛然とヒロに向かって駆けてくる。右から飛んできた拳はかわしたが、左から打ち込まれたパンチはまともに脇腹に埋め込まれた。胃から嫌なものがせり上がる。倒れずに堪えた足を払われ、今度こそ細身の体が地に伏せた。 「おい田舎モン。田舎くせぇ喧嘩じゃここじゃやっていけねえって事教えてやるよ」 「…優しゅうしてくれや」 腫れた手の甲に男の靴の底が乗る。始めから人数の面では分が悪いと思ってはいたが、いよいよ追い詰められたかと内心では歯ぎしりする。おくびにも出さずに嘲笑うヒロの腹部に男の靴が食いこんだ。呑んだ酒を吐き戻し、勿体ないな、と舌打ちしたヒロの背後に、もう1人男が歩み寄った。 「——誰が田舎モンやって?」 おっとりした、ともすれば穏やかな声が朗々と響く。見上げると、今日も嫌味な程に——「シュッとした」スリーピースを着込んだハルと目が合った。仕方ねえなと笑う目に嫌でも安堵が過ぎる。 「…田舎モン同士つるんでんのか。お前はどこの田舎——」 助っ人の姿に男が舌打ちする。ヒロから、完全に視線が外れた。呼吸が、重なる。 「…京都、」 「ハルさん!」 ぼそ、と落ちる声すら夜に通る。地を這ったヒロが男の両足にしがみつく様を確かめたハルが口角を上げ、長い足を振り被る。よく磨かれた革靴が、男の脇腹に刺さり、骨が軋む音がした。 「京都よ、俺」 もう聞こえてないか。泡を吹いて地に崩れた男に、ハルが声を上げて笑った。 「ちょーだい、」 とりあえず場を離れてしまえと足を揃えて路地裏の道を縫い、ビルに囲まれたどん詰まりに辿り着いた。歓楽街に付き物の汚物やゴミが無いことを確かめてから、流石に上がる息を整えつつヒロが先にしゃがみ込む。ひしゃげた煙草の箱から1本抜いた白筒の色を見やったハルが、立ったままで指を伸ばす。 「…禁煙したんじゃなかったんですか」 「してるしてる」 互いに別の色を持つ訛りを隠すことなく軽口を叩く。差し出した箱から抜いたフィルターを咥える様を横目にヒロがまず穂先を焦がす。唇に、久方振りに寄せた苦味を咥えたハルがヒロより10センチ近く高い背を更に屈めて火を強請る。 「よぉわしだってわかりましたね」 「あんな訛り丸出しで喧しい喧嘩してんのお前くらいしか思いつかんかったわ」 東京に来たからには、幾分か——無意識にでも、格好を付けたがるのが性と言うものだろう。だがヒロにはそれが一切ない。西には西の矜持と喧嘩がある。そのある種くだらないヒロの思想を、ハルは理解している。 「お前に死なれんのは困るからね」 先に上京してきたハルはこの街で成功したと言っても良いだろう。少なくともヒロよりは顔が利く。それでも、何かといえばヒロを気にかけてくれるのは、果たして年長としてのそれなのか、西という広い意味での同郷としてのシンパシー故のものなのかはわからない。 一見では人よ良さそうな顔立ちのハルが笑う。だがヒロは、時折ハルの目が笑っていないことを知っている。食えない男、というのがこの歌舞伎町でのハルの評判だ。そのハルにぶら下がって生きていくことは簡単だろう。だが、それを良しとしない所が、ハルを動かす所以になっている。 久方振りに吸い込んだ煙にハルが目を細める。美味そうに煙草を吹かしてから、ヒロを見下ろした。 「この間貸した三万、」 「…あー…、」 咥え煙草のヒロが坊主頭を掻く。次の船で勝つんで。気まずさや謙虚さを覗かせることなく、邪気なく笑うヒロに、ハルが楽しげな目を向ける。ネオンがギラつく歓楽街の谷間から、2本の煙が細く昇っていった。

ともだちにシェアしよう!